越谷市新川町一丁目(旧・越巻村丸の内)の鎮守・丸の内稲荷神社。場所は、七左衛門通りと蒲生岩槻線(埼玉県道324号)が交わる新川橋を武蔵野線のガード下に向かった150メートル先。県民健康福祉村の南600メートル、出羽公園の西北200メートルに位置する。創建は江戸時代の初期と伝えられ、参道には江戸中期の青面金剛像庚申塔、境内には力石などが置かれている。
歴史
丸の内稲荷神社が鎮座する新川町は、越谷市の西端に位置し、綾瀬川を境に川口市に接している。現在の新川町一丁目・二丁目は、かつては越巻村と呼ばれ、中新田(なかしんでん)丸ノ内(まるのうち)雨足(うたり)という三つの組=小名(こな)に分かれていた。小名とは、村を小分けした土地のと。
『新編武蔵風土記稿』越巻村の項に「小名 中新田 丸ノ内 雨足」「稲荷社 二宇 一は鎮守にて慶長十七年、一は元和元年勧請すといふ」とある。
慶長17年(1612)に創建されたほうが、現在の新川町二丁目にある中新田稲荷神社で、かつての越巻村中新田と雨足の鎮守社。元和元年(1615)創建のほうが、越巻村丸ノ内(現在の新川町一丁目)の鎮守・丸の内稲荷神社である。
(備考)中新田稲荷神社については別記事を参照されたい。
越谷市新川町二丁目(旧・越巻村中新田)の鎮守・中新田稲荷神社(越巻稲荷神社)。場所は県民健康福祉村の万葉植物園と老人福祉センターけやき荘の間。創建は江戸時代の前期と伝えられ、地元では、妙観照(みょうかんしょう)の名で親しまれてきた。境内には、一本松と呼ばれる大木の根本に二基の石仏(庚申塔と天神塔)が建てられている。
御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。稲の霊が神格化された神で、五穀豊穣をつかさどることから、稲荷神社の祭神として祀られている。稲荷神(いなりのかみ・いなりしん)とも呼ばれる。
お備社(びしゃ)
例祭は、1月日の元旦祭、1月25日のお備社(びしゃ)、10月15日のお日待(ひまち)の年三回。なかでもお備社は盛大に行なわれた。にんじんやごぼうなどを削って門松のようにした神饌(しんせん)が神殿に供えられ、神職も出社して祭典が執り行なわれる。祭典が終わると、席を移して祝宴となり、当番の引き継ぎが行なわれる。お備社は年ごとの年番制であった。
かつては神社の東側に氏子共有の水田があり、毎年、年番が稲を作り、収穫した米を売ってお備社の費用にあてていた。お備社の収支報告は「祭典入用帳」と呼ばれる帳簿に年番の者が記帳したが、江戸前期・天和3年(1683)からの祭典入用帳が今でも保存されている。
お備社のほかにもかつては村人たちが楽しみにしてた行事がいくつかあった。『 埼玉の神社(北足立 児玉 南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)に、丸の内稲荷神社の氏子たちで行なわれていた行事についての記載がある。以下引用(抜粋)
戦前は、大きな数珠をもみながら村内を回って疫病を防ぐ七月一日の百万遍(ひゃくまんべん)、松明(たいまつ)をともして耕地を回って稲に付く虫を追い払う七月十五日の虫追い、子供たちが旧暦の二月初午の夜に拝殿にこもって一夜を明かす初午、榛名神社・大山阿夫利(おおやまあふり)神社・戸隠神社などへの代参講などさまざまな行事が行なわれていた。これらの行事は、ほとんどが戦後まもなく消えてしまい、最後まで残った戸隠講も、昭和50年ごろに途絶えてしまった。
引用元:『埼玉の神社』北足立 児玉 南埼玉(埼玉県神社庁)
こうした行事は農民たちの数少ない楽しみであり息抜きの場でもあった。
青面金剛像庚申塔
一の鳥居から二の鳥居に向かう参道脇に、江戸中期・元禄13年(1700)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)庚申塔がある。鞘堂(さやどう)の中に安置されていることもあってか、銘文の一部が欠損しているものの保存状態はとてもよい。
石塔の型式は駒型。最上部に梵字・アーンク。左右に日月。邪鬼を踏みつけている六臂(ろっぴ)の青面金剛像。下部に三猿。日月・青面金剛・邪鬼・三猿は浮き彫り。台石には蓮の花が彫られている。
正面の銘文は、「奉造立□□□(※)二世安楽祈處」「施主 庚申講 同行十二人」「欽言」「元禄十三庚辰歳九月吉祥日」(※)□□□は欠損部分。
念仏講の文字が刻まれている
右側面には「念仏講同行十二人」と刻まれている。
『越谷市民俗資料』越谷市史編さん室(昭和45年3月1日発行)信仰「講・日待」に、「念仏講はこの辺(越巻村)ではさかんで、丸の内の場合は、十五軒が講仲間を構成し、毎月の月次(つきなみ)念仏をおこなった」とある。碑文の「念仏講同行十二人」というのは、『越谷市民俗資料』に記されている丸の内の講仲間のことだろう。
境内の風景
神域には一の鳥居(木の鳥居)から入る。参道の幅は広くはないが、石畳になっている。神社の横の道は蒲生岩槻線(埼玉県道324号)。50メートルほど先に武蔵野線の高架が見える。道路の向かい側に墓地があるが、ここはかつて越巻村の神社を管理していた満蔵院(まんぞういん)という寺院だった。
不動堂
一の鳥居を抜けると右手にトタン張りの不動堂がある。手前に石祠があるが神体は不明。不動堂と石祠の間に欠損している石仏が置かれている。
欠損している石仏
欠損している石仏の碑文や彫像などはまったく分からない。かろうじて、最下部に、三尊のつま先部分が確認できる。向かって右端は地蔵菩薩のようだ。その隣は如意輪観音かもしれない。左端は判断できない。
参道
一の鳥居から二の鳥居までは60メートルほど。参道の左手は住宅地になっている。
庚申塔
参道の中ほど(右脇)に立っている石仏は青面金剛像庚申塔。
新川町一丁目自治会館
二の鳥居の手前にある建物は新川町一丁目自治会館。以前は、農民センターだったが改築されて自治会館になった。
二の鳥居
境内の入口に江戸後期・文化14年(1817)在銘の石鳥居(二の鳥居)が建てられている。柱には「文化十四年丁丑十一月吉日」「氏子中」とある。石の神額には「正一稲荷大明神」と彫られている。鳥居の横に「越巻村」と刻まれた角柱型の石塔が置かれている。
神域
神殿前の神域は、かなり広いが空き地のようにがらんとしている。手水舎(ちょうずや)・狛犬・灯籠などは置かれていない。神殿のうしろは社叢(しゃそう)になっていてイチョウなどの大木がある。神殿の脇に天満宮の祠があり、右手後方には武蔵野線の高架が見える。
神殿
神殿は、瓦葺き板囲いで、どっしりとしている。神殿には、江戸中期・元文2年(1737)に、正一位の稲荷社に叙されたときの宣旨(せんじ)祝詞(のりと)幣帛(へいはく)が納められているほか、神仏混淆(しんぶつこんこう=仏と神を同時に祀っていた)時代の神体も残れされているという。
末社|天神社
社殿の脇、イチョウの根元にある末社は天神社(てんまんぐう)。祠の中には天神座像の小さな石像が安置されている。
力石
天神社の脇に力石が並べられている。風化によって判読できない文字もあるが、手前の力石には「奉納 力石 二十九貫目 越巻村」などと刻まれている。29貫は約109キログラム。その奥の力石に刻まれている文字は判読が困難。
参拝情報
住所は埼玉県越谷市新川町1-282( 地図 )。住所の読みは「さいたまけん こしがやし しんかわちょう」。郵便番号は 343-0852 。公共交通機関でのアクセスは、東武伊勢崎線・新越谷駅西口から、朝日バス「出羽地区センター行き」で「七左ェ門通り」下車。徒歩15分。越谷駅西口からだと、タローズバス「県民健康福祉村行き」で「出羽小学校入口」下車。徒歩20分。トイレおよび車を駐めるスペースはない。