越谷市東町の金剛寺にある二猿付き庚申塔などの石仏を調査した。当日の様子を写真とともに紹介する。場所は中川に架かる吉越橋の南西300メートル。東町くぬぎ通りから西に入ったところにある。
金剛寺
調査したのは 2023年4月11日と4月29日。まずは金剛寺について簡単に触れておく。
金剛寺は、旧・別府村(現・東町)にある真言宗豊山派の寺院で、山号は五鋸山金剛寺。開山僧は戦国時代・天文18年(1549)没年(※1)を伝える古刹。本尊は聖観音菩薩。
もとは慈眼寺(じげんじ)と称していたが、明治期に、四条村(現・東町)の妙音院と三輪野江村(現・吉川市)の東眼寺を合併して、金剛寺と改名した。
※1 江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』別府村「慈眼寺」の項に「開山善幸天文十八年八月十五日示寂す。本尊は正観音を安置せり」とある。
三基の庚申塔
最初に、参道と無縁塚にある三基の庚申塔を調べた。
寛文2年(1661)造塔の庚申塔
参道脇、六地蔵堂の隣にある石塔は江戸前期・寛文2年(1661)造塔の庚申塔。
石塔型式は板碑型。最頂部には、釈迦如来を表わす種子(梵字)の「バク」。主銘は「奉供養庚申二世安楽所願成就所」。脇銘は「寛文二寅年」「十月十五日」「施主」「敬白」。台石には12人の名前が刻まれている。
最下部の彫像
石塔の最下部に、立て膝をついた姿と、あぐらをかいて合掌している姿のふたつの彫像が並んでいる。
立て膝
立て膝をついた姿の彫像。
あぐら&合掌
あぐらをかいて合掌している姿の彫像。
二童子説|通説
従来、このふたつの彫像は「二童子」と解釈されてきた。
- 「寛文二年(一六六二)在銘の二童子が刻まれた庚申塔」『越谷ふるさと散歩』(※2)
- 「寛文二」「奉供養庚申二世安楽所願成就所」(二童子)『越谷市金石資料集』(※3)
- 「四条の二童子を刻む寛文二年(一六六二)の板碑型の文字塔」『越谷市史(一)』(※4)
※2 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「別府と千疋」109頁
※3 越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「庚申塔」1227頁
※4 越谷市史編さん室編『越谷市史(一)』(通史上)越谷市史編さん室(昭和50年3月30日発行)「庚申塔」159頁
案内板
山門前の解説板(昭和61年3月設置)にも「寛文二年(一六六二)十月銘の二童子が刻まれた文字庚申塔」と書かれている。
二童子庚申塔説
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏も現地調査報告書「大相模地区の石仏」(※5)で、この文字塔は「二童子庚申塔」と解釈し、次のように述べている。
二童子が刻まれているのはとても珍しい。青面金剛の姿は「陀羅尼集教」(だらにじっきょう)で説かれているが、その中で青面金剛の両脇には童子が一人ずつ、夜叉が二人ずついるとされている。この「陀羅尼集教」に影響されて二童子が描かれたのであろう。
引用元:二童子庚申塔(※5)
※5 加藤幸一「大相模地区の石仏」平成16・17年度調査/令和元年9月改訂(越谷市立図書館所蔵)金剛寺「二童子庚申塔」82頁
二猿説|新説
従来の「二童子」説に対し、越谷市郷土研究会・副会長の秦野秀明氏が、この庚申塔に陽刻されたのは「二猿」である、との通説を覆す試論(※6)を2023年4月に発表した。以下、一部を引用・抜粋。
「寛文二年(一六六二)二童子付き庚申塔」で表現される彫像主体は、「二童子」ではなく「二猿」であると解釈することが、最も妥当であると推定した。つまり、「寛文二年(一六六二)二童子付き庚申塔」ではなく、「寛文二年(一六六二)二猿付き庚申塔」である可能性が高いと推定した。
引用元:秦野(2023)「試論」※6
※6 秦野秀明(2023)「試論『寛文二年(一六六二)二童子付き庚申塔』は『二猿付き庚申塔』である可能性が高い」
秦野秀明(2023)「試論『寛文二年(一六六二)二童子付き庚申塔』は『二猿付き庚申塔』である可能性が高い」は以下のリンク先で閲覧可能。
http://koshigayahistory.org/230411_nidohji_nien_h_hatano.pdf
二童子? 二猿?
石塔の下に陽刻されているふたつの彫像は、二童子なのか、二猿なのか。
立て膝をついている姿と、あぐらをかいて合掌している姿は、そのまま素直に見ると、猿に思える。童子のような衣服も着ていないし、とくにおなかの部分は「童子」よりも「猿」に近い。
主尊は釈迦如来
また、青面金剛を表わす種子(梵字)は「ウーン」が一般的だが、この石塔に刻まれている種子(梵字)は釈迦如来を表わす「バク」である(上の写真の黄色い○印)
主尊が青面金剛だとすれば、「二童子」の可能性も否定はできないが、釈迦如来を主尊としていることから、「二猿」と見るのが自然に思える。
この石塔は二猿付き庚申塔
個人的には、秦野氏の試論のとおり、この寛文2年(1662)造塔の石塔は、「二童子付き庚申塔」ではなく、「二猿付き庚申塔」と解釈するのが妥当だと考え、秦野氏の試論を支持したい。