徳蔵寺裏手|大吉の水田地帯

越谷市大吉の水田地帯|徳蔵寺裏手

徳蔵寺の裏手には水田地帯が広がっている。正面(西)前方は新方川を境に弥栄町(やさかちょう)、その先が弥十郎(やじゅうろう)。ケーズデンキの看板と、弥栄ゴルフ練習場が見える。斜め左手(西南)に見える建物は、新方地区センター・公民館、その隣は新栄中学校。斜め右手(西北)には弥栄小学校が見える。

40年前と変わらぬ風景

昭和55年(1980)4月発行の『越谷ふるさと散歩(下)』(越谷市史編さん室)「大吉徳蔵寺」の項に、この場所について次のように記されている。以下引用。

徳蔵寺の裏は、一望の水田地が広がるが、その向こうには水田地を屏風のように遮(さえぎ)って新興の住宅群が一列につらなる。新方地区を貫通する新方川(千間堀)を境に、急激な変貌をみせた弥十郎の住宅群である。また新方川手前の水田地にも、昭和五十年四月開校の弥栄小学校が建てられており、新方の水田地は次第に狭まれていく感じである。しかし鷺後用水路に沿った大吉の一角に造成された住宅団地を除いては、昔ながらの集落を中心としたまだ静かな地域である。

昭和55年(1980)というと今から40年前。当時の静かな田園風景は今も残されているが、急激な変貌をみせた弥十郎の住宅群のように、いずれはこの風景も過去のものとなってしまうのかもしれない。

徳蔵寺裏手|田畑の風景

徳蔵寺裏手|田畑の風景(越谷市大吉)

徳蔵寺の裏手を北に進む。70メートルほど歩いた道沿い、田畑の一角にイチョウの大木が見える。その左手前方の建物は北川崎にある新方小学校。次に向かう天満宮はイチョウの木の下にある。

大吉天満宮

大吉天満宮の住所は越谷市大吉1092。大イチョウの下に鳥居が見える。この場所からは祠などは見えない。天満宮の鳥居前の敷地は畑になっているので、前からは入れない。柵に沿って歩き、横から入る。

敷地内

敷地内

敷地の中には石鳥居。石階段が付いた石垣の上には石造りの小さな祠が置かれている。祠の中には『天満宮』と刻まれた石塔が祀られている。石塔の造立年代は不明。敷地内に江戸中期・安永5年(1776)の「稲荷大明神」文字塔があるので、神社の創建もそのころか。この神社は村の鎮守というよりも屋敷神を祀ったもののように思える。

「稲荷大明神」文字塔

「稲荷大明神」文字塔

石祠を正面に見て左手にあるのは、祠型「稲荷大明神」文字塔。造立は江戸中期・安永5年(1776)。正面は「稲荷大明神」と刻まれ、左側面は「安永五丙申二月四日」、右側面には「孫子三人為祈祷」の文字と造立者の氏名が見える。

「疱瘡神」文字塔

「疱瘡神」文字塔

敷地の西端、ケヤキの下にある祠型の石仏は「疱瘡神」文字塔。昭和38年(1963)造立。正面に「疱瘡神」と銘が刻まれ、裏面に「昭和三十八年十二月吉日」の文字と造立者の氏名が確認できる。ちなみに「稲荷大明神」文字塔と「疱瘡神」文字塔の造立者名は同じだった。

田園風景

田園風景|越谷市大吉

天満宮の西一帯は田んぼが広がっている。田んぼの先は新方川。土手が見える。のどかな田園風景だ。この社は、おそらく200年以上にわたって、この水田地帯を見守ってきたに違いない。

大吉から向畑に入る

こしがや希望の里

大吉天満宮をあとに北へ。ここからは大吉から向畑になる。「こしがや希望の里」を過ぎて十字路を右へ進む。

畑地内の墓地|大黒天像付き墓標

畑地内の墓地|越谷市向畑

150メートルほど歩くとY字路にぶつかる。前方にイチョウやケヤキの巨木が見える。Y字路を左へ。畑の奥、ケヤキの根元が墓地になっている。

墓標

墓標

墓地には、笠付き角柱型の先祖代々の墓標をはじめ櫛(くし)型、板碑(いたび)型、兜巾(ときん)型など、大小さまざまな墓石が置かれている。建立の年代も元禄・正徳・享保など江戸中期のものが多い。

大黒天像付き墓標

大黒天像付き墓標

中でも目を引くのは大黒天が陽刻された駒型の墓標。江戸中期・正徳4年(1714)造立。正面の最上部に梵字「ア」(※3)、その下に大黒天像、その下に「照光院覚窓貞本信女 霊位」とある。左側面は「正徳四申午歳」、右側面には「十月二十九日」と刻まれている。この墓石の下で眠っている女性は、江戸時代、大黒天を信仰したご先祖様だったと思われる。

※3 大黒天を表わす梵字は「マ」だが、この墓標では大日如来を表わす「ア」が用いられている。真言宗の本尊は大日如来なので、この家の宗派は真言宗なのだろう。

この墓地は、個人宅の畑地内にあるので、見学や撮影にはじゅうぶんな配慮が必要。畑地を無断で歩いて耕作物を踏んだりすると迷惑がかかる。今回は許可をいただいたうえで取材と撮影を行なった。

文字庚申塔|向畑の路傍

文字庚申塔|向畑の路傍

墓地を出て、小道を60メートルほど行った右手の路傍(畑の一角)に、文字庚申塔がある(越谷市向畑)。江戸後期・文政13年(1830)造立。正面の主銘は「庚申塔」。右側面には「文政十三庚寅年十一月吉日」「武州埼玉郡西方領 向畑村」と刻まれている。台座の正面には「講中」とあり、側面には講員の氏名が刻まれている。

石橋の架設を記念して造塔された

庚申塔

庚申塔の左側面に「津切橋 皿沼橋 根堀橋 台畑橋 四ケ所石橋願主」と刻まれている。『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「向畑の集落と華光院跡」の項に、「おそらくこれは用水堀に架せられた石橋の架設を記念して造塔された庚申塔であろう」と記されている。

平方東京線に戻る

次は向畑の墓守堂へ。文字庚申塔の前のT字路を右に折れ、400メートルほど進むと、平方東京線と交わる三叉路に出る。前方に古利根川が見える。右手(川下)は新方橋方面。左手(川上)は堂面橋方面。

三角地の堂舎と石仏

三角地の堂舎と石仏

三叉路の右手の三角地帯に、庚申塔などの石仏やお堂が建てられている。この三角地にある堂舎と石仏については別の記事にまとめてあるので、そちらを参照されたい。

墓守堂|千蔵院跡地

墓守堂|千蔵院跡地

三叉路の左手には墓地がある。江戸時代、この一帯は千蔵院と称された真言宗の寺院であった。現在の墓地は千蔵院の跡地で、十一面観音堂(別名・墓守堂)と呼ばれている。墓地の一画には、六地蔵や普門品供養塔のほか珍しい戒名の墓石がある。十一面観音堂についても別記事にまとめてある。