越谷市の北東、古利根川右岸に沿って下流域に細長く広がる向畑(むこうばたけ)。対岸は松伏町。堂面橋と新方橋の中ほどの道(平方東京線)沿いに、十一面観音堂と呼ばれている墓地がある。江戸時代、この一帯は千蔵院と称された真言宗の寺院であった。墓地の一画には、六地蔵や普門品供養塔のほか「一音演聲信士」と刻まれた珍しい戒名の墓石がある。

歴史

向畑十一面観音堂|越谷市向畑

かつて向畑村には、華光院(けこういん)と千蔵院(せんぞういん)という二つの寺院があり、どちらも観音堂を有していた。『新編武蔵風土記稿』向畑村の項に「○華光院 新義真言宗、葛飾郡野田村報恩寺門徒、山王山と号す、本尊薬師、山王社 観音堂」「○千蔵院 新義真言宗、葛飾郡野田村金乗院門徒、梅龍山と号す、本尊不動、水神社 観音堂」とある。
 
現在、堂面の観音堂と呼ばれているのが、華光院があった場所で(川崎聖徳寺の隣地)、墓地の敷地内には、「聖観世音菩薩」と書かれた扁額が架けられたお堂と、「山王山」と刻まれた石祠が安置されている小さな祠がある。

  • 堂面の観音堂(向畑観音堂)については別記事にまとめてあるのでそちらを参照されたい。

一方、向畑十一面観音堂は、千蔵院の跡地で、墓守堂とも呼ばれ、現在は集会所と墓地になっている。『新編武蔵風土記稿』に「本尊不動」とあるが、墓地手前の三角地にある不動三尊像を安置した不動堂と、不動明王の従者である「三十六童子」と刻まれた文字塔が、かつての名残を伝えている。

  • 墓地手前の三角地にある石仏についても別記事にまとめてある。

念仏講

向畑の十一面観音堂では「念仏講」(ねんぶつこう)が行なわれていたことが記録に見える。念仏講とは、毎月、当番の家に集まって、念仏(お経)を唱えたあと、会食をしながら懇談をした女性たちの会合のこと。宗教的な儀式というよりも親睦を深める意味合いが強かった。

十一面観音堂と念仏講

『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)旧向畑村十一面観音堂の項に、「毎年八月十五日に『十一面』と呼ばれる行事(念仏講)が行なわれ、以前は観音経が唱えられていた。本尊の十一面観音菩薩像は秘仏で、十二年に一回の午の年に御開帳が行なわれる」とある。『越谷市民俗資料』越谷市史編さん室(昭和45年3月1日発行)にも「向畑では十一面観音堂で念仏講が明治末期までさかんに行なわれていた」ことが記されている。

墓地内の風景

集会所と墓地

かつての堂舎は現在トタン葺きの集会所になっている。本尊の十一面観音は集会所の中に安置されている。集会所と墓地の間に若干の空き地があり、鞘堂(さやどう)の中に六地蔵が見える。鞘堂の脇には、力石、普門品供養塔、巡拝塔などが並べられている。墓地の一角にある夫婦で生前供養したと思われる二基の名号塔(逆修供養塔)は珍しい。

六地蔵

鞘堂

銅板葺き屋根の鞘堂がある。鈴と鈴紐も掛けられている。横には鞘堂と同じぐらいの高さがある榊が緑の葉を茂らせている。鞘堂には六地蔵が6体ずつ前後二列に安置されていて、手前は新しく造られた丸彫りの六地蔵。奥は上部丸型の石塔に浮き彫りされた先代の六地蔵。かなり古い。

新旧六地蔵

六地蔵

石塔に浮き彫りされた奥の六地蔵は風化が進んで顔や姿も確認でない。鞘堂の左下に「寄進 昭和62年3月吉日」とあるので、新しい六地蔵は、そのときに寄進されたものだろう。

力石

力石

鞘堂の左脇に力石が三基並べられている。重さが刻まれているように見えるが風化により判読できない。かろうじて「向畑」という文字が確認できる。

六基の石仏

六基の石仏

鞘堂の右脇には六基の石仏が並んでいる。左から念仏供養塔、巡拝塔、普門品供養塔、個人の墓石。その隣には小さな地蔵像が二体置かれている。

念仏供養塔

念仏供養塔

江戸後期・天明元年(1781)の念仏塔。石塔型式は上部隅丸角型。主銘は「奉称念仏壱億万遍供養塔」。左の脇銘は「天明元辛丑 当村願主」、右脇銘は「十月十有五日」「嶋村太兵衛 九十六歳」。建立者は96歳ということだが、当時とすればかなりの高齢。「念仏壱億万遍供養」(ねんぶつ・いちおくまんべん・くよう)は、南無阿弥陀仏を1億万回(※)唱えたことを記念して建てたものなので、96歳という長寿は、阿弥陀如来の功徳によるものかもしれない。

※ 億万とは仏教などでよく用いられる語で、数がひじょうに多いという意味。その代表的な仏教用語として「億万劫」(おくまんごう)がある。ひじょうに長い時間、年月という意味である。日常生活でも「億万長者」という言葉がある。

巡拝塔

巡拝塔

「秩父一番」の銘がある駒型の巡拝塔。江戸後期・寛政5年(1793)造立。中央の上段に観音菩薩立像が浮き彫りされていて、下段に願主23人の名前が刻まれている。左の脇銘に「秩父一番」、右の脇銘に「寛政五丑五月吉日」とある。秩父一番とは、秩父観音札所三十四箇所巡り第一番の四萬部寺(しまぶじ)のことと思われる。

普門品供養塔

普門品供養塔

江戸後期・文化2年(1805)造立の普門品供養塔(ふもんぼんくようとう)。石塔型式は頭部山状角柱型。正面に「梵字・サ」「普門品供養」と刻まれている。台座には、願主・世ハ人(世話人)13人の名前が見える。左側面に「文化二乙丑年」、右側面に「清明吉日」とある。
 
梵字「サ」は聖観音(聖観世音菩薩=観音さま)を示す種子(しゅじ)。普門品(ふもんぼん)とは、法華経(全28品)の第25品にある経典のこと。観音経(かんのんぎょう)とも呼ばれる。普門品供養塔は、観音経(普門品)を一定回数、唱えたことを記念して建てたもの。

地蔵像

地蔵像

榊の下(鞘堂の右脇)に小さなお地蔵様が二体いる。もしかしたらかつては鞘堂の中で六地蔵といっしょに安置されていたものかもしれない。赤いよだれかけを掛けられ、花も供えられている。お参りしている人がいるようだ。

無縁仏

無縁仏

墓地には無縁仏となった墓石も目につく。戒名や元号などの碑銘を確認できるものもあるが、風化が進んで、碑文を確認できないものが多い。中には倒れてしまっている墓石もある。

珍しい戒名の墓石|一音演聲信士

墓石|一音演聲信士

墓所の一角に「一音演聲信士」と刻まれた珍しい戒名の墓石がある。墓石の最頂部に阿弥陀仏を示す梵字・キリーク。没年は江戸中期・寛政10年(1798)年。施主は江戸源八とある。「一音演聲(声)」という文字からすると、もしかしたら江戸時代、芸人だった人の墓石かもしれない。
 
戒名には必ず深い意味や、その人の活動歴があるはずだが、残念ながら「一音演声信士」についての言い伝えや記録は残っていない。文字から推測すると歌舞伎役者の声色(こわいろ)をまねて客を喜ばせた木戸芸者(きどげいしゃ)、今でいう声帯模写の芸人だったのかも……など、興味は尽きない。

逆修供養塔

逆修供養塔

集会所の裏手に板碑型の名号塔が三基並んでいる。左端と真ん中の石塔には「逆修」の文字と、それぞれに「信士」「信女」の文字が刻まれているので、この二基は、夫婦で建てた逆修(ぎゃくしゅ)供養塔と思われる。

逆修(ぎゃくしゅ)とは

生前に自らの手で供養を行なうこと。死後の追善供養に対し、生前に戒名を授かって(生前戒名)、自分の墓碑を建てて供養(生前供養)をすると、死後により大きな功徳が得られるという習わしがある。

逆修供養塔|信士

逆修供養塔

主銘に「南無阿弥陀仏為逆修松岩浄宗信士菩提也」と刻まれている板碑型の逆修供養塔。造立は江戸前期・万治元年(1658)。脇銘に「万治元戊戌年」「十月吉日」「施主 嶋村民部」「敬白」とある。戒名に「信士」(しんじ)が付いているので、こちらが夫の逆修供養塔。

逆修供養塔|信女

逆修供養塔

こちらの主銘は「南無阿弥陀仏為逆修□(※欠損)岩妙宗信女菩提也」。戒名に「信女」(しんにょ)、脇銘に「内義」(ないぎ)とあるので、こちらは妻の逆修供養塔。内義とは妻のこと。造立は夫の逆修供養塔と同じく江戸前期・万治元年(1658)十月。二基とも施主は「嶋村民部」と刻まれているので、夫の嶋村民部が施主となって、自分と妻の逆修供養塔を建てたのだろう。
 

十一面観音堂は墓地なので、石仏などの見学や撮影にはじゅうぶんな配慮が必要。個人のお墓に無断で立ち入ったり、卒塔婆や供え物などに勝手に手を触れるなどの行為は現に慎むべし。

交通案内

越谷市向畑・墓守堂そば路傍三角地

越谷市向畑・十一面観音堂

住所は埼玉県越谷市向畑684東( 地図 )。郵便番号は 343-0007 。Yahoo!やゼンリンの地図では「墓守堂」と表示される。公共交通機関を使った場合、北越谷駅東口から野田市駅行きの茨急バスに乗って新方橋(にいがたばし)バス停で下車。古利根川右岸沿いの道(平方東京線)を上流に向って歩くと、12分ほどで着く。新方橋と堂面橋のほぼ中間地点。墓地の敷地内(集会所の横)に車2台ほど駐められるスペースがある。道路は一車線で車の通りもけっこうあるので路上駐車はできない。

謝辞

本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏に校閲をしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。