越谷市相模町にある大聖寺。通称・大相模不動尊。創建は奈良時代の天平勝宝二年(750)といわれる古刹で、越谷市最古の寺院と伝えられている。東門に通じる裏参道の両側には「庚申」と刻まれた文字塔が百基並ぶ百庚申をはじめ青面金剛像塔・二猿像・普門品供養塔・馬頭観音文字塔など多くの石塔が立ち並んでいる。
東門
大聖寺本堂の東側にある東門。銅板葺き朱塗りの山門の先には石畳の参道が続き、前方に本堂が見える。左手は大相模不動尊通り。右に100メートルほど行くと元荒川の右岸側土手に出る。東門の手前(向かって右側)に石塔が一基建っている。
道しるべ
この石塔は大相模不動尊(大聖寺)への道を示す道しるべ。江戸末期・文久2年(1862)造立。石塔の型式は兜巾型(ときんがた)。正面の上部に不動三尊(ふどうさんぞん)を示す梵字、その下に「是より 大さがみふどうそん 十二丁」と刻まれている。
不動三尊を示す三つの梵字
石塔上部の三つの梵字、中央の梵字は不動明王を示す「カンマン」、左下は制多迦童子(せいたかどうじ)を示す「タ」、右下は矜羯羅童子(こんがらどうじ)を示す「タラ」。矜羯羅童子と勢多迦童子は不動明王の脇侍。不動明王の両脇に、こんがら童子と、せいたか童子を従えた形式は不動三尊(ふどうさんぞん)と呼ばれる。
脇銘
左側面には「文久二壬戌年三月」、右側面には「天下泰平国土安穏」とある。そのほか、世話人の名前や伊原村・柿之木村・大牧村・荻島村・清右ヱ門新田・金右ヱ門新田・登戸村など世話人の村名も確認できる。
この道しるべは、もとは旧日光街道に面した常陽銀行越谷支店(越谷市南越谷1-1-35 )の角地にあったものをここに移された。『大相模地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)によると「最初は(この道しるべは)大聖寺境内の東門側の参道に移転してきた(昭和46年5月27日)。現在の東門の外への移転は、平成16年7月である」とある。
道しるべには「是よりおおさがみふどうそん 十二丁」とあるが、「十二丁」は、約1,300メートル。この道しるべがもともとあった場所には不動道がなければならない。この常陽銀行越谷支店あたりは一面たんぼであった。常陽銀行越谷支店から北の武蔵野線を越えた60メートル先の地点が、日光街道から不動尊に通じる古道があったところで、その日光街道と不動道の角にこの道しるべがあったと思われる。現在は残念ながらその不動道は開発によってまったく失なわれている。
東門参道|裏参道
東門をくぐると、裏参道とも呼ばれる石畳の参道が本堂までおよそ60メール続いている。参道の両脇は文字庚申塔や普門品供養塔をはじめ多くの石仏が立ち並ぶ史跡の宝庫。石仏ファンには格好の撮影スポットになっている。上の写真は東門参道(裏参道)の中間地点から本堂を背にして東門を望んだ風景。
百庚申
裏参道の見どころはなんといっても百庚申。参道両脇に五十基ずつ「庚申」と刻まれた文字塔(文字庚申塔)が並ぶ光景は壮観。造られたのは江戸後期・天保6年(1835)。
どうして百基もの庚申塔を立てたのか。
大聖寺の百庚申について『越谷市史一(通史上)』越谷市役所(昭和50年3月30日)民間信仰の種々相「庚申塔」(p1230)に「百庚申は多人数により百基の庚申塔を一箇所に立て、一基の庚申造立にくらべてより多くの功徳を期待したものである」との記述がみえる。『日本石仏図典』日本石仏協会(昭和61年8月25日発行)庚申塔<6>百庚申(p98)にも「数を多くすることで『所願成就』を確実にしようとするのである」と書かれている。
一基よりもたくさんあったほうがご利益が大きいということらしい。一度に百基を拝めるというのはありがたいといえばありがたい。
石塔に刻まれた文字は貴重な史料
よく見ると一基ごとに造塔者の居住地と名前が刻まれている。「西新井村 喜左衛門」「草加宿 野嶋屋三治良」「佐藤村 名倉忠兵衛」「江戸深川 万年橋 美舩子」「下総国平方新田 増田吉右衛門」……など。
確認できる範囲で百庚申に刻まれている地名をひろっていくと、
深作村(大宮)
谷中村(越谷)
尾ヶ崎村(岩槻)
内野村(大宮)
江戸深川(東京)
邑国村(岩槻)
新方領中野村(春日部)
大場村(春日部)
麦塚村(越谷)
上内川村(吉川)
江戸本所(東京)
高畑村(越谷)
庄内領永沼村(春日部市庄和)
今上村(野田市)
金杉村(松伏)
横根村(岩槻)
下総国平方新田(流山)
瓦曽根村(越谷)
市川村(市川市)
南部寺山村(浦和)
幸手領□□村(幸手)
川崎村(越谷)
草加宿三丁目(草加)
東方村(越谷)
三ノ宮村(越谷)
岩槻領谷下村(岩槻)
佐藤村(川口)
戸塚村(川口)
西新井村(越谷)
平方村南組(越谷)
中井村(吉川)
二郷半領川野村(吉川)
金杉村(松伏)
玄番新田(浦和)
銚子口村(春日部)
魚沼村(松伏)
小林村(越谷)
松伏村(松伏)
大道村(越谷)
大沢町(越谷)
岩槻領□□村(岩槻)
増林村(越谷)
越谷のみならず周辺地域からも信仰を集めていたことや江戸の本所や深川などからも参詣者があったことがうかがわれる。当時の大聖寺の信仰圏を知るうえでも貴重な史料といえる。
増林村 紺屋嘉兵衛
百庚申の中に「増林村 紺屋嘉兵衛」と刻まれた石塔がある。この石塔について、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏は『大相模地区の石仏』(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)大聖寺(p54)の中で「増林村の紺屋嘉兵衛という人が奉納している石塔からは、増林村は当時は染物業や晒(さら)し業がさかんであったことが裏づけされる」と指摘している。また「このように百庚申に刻まれた文字は、庶民の生活等の歴史をつかむうえで多くの鍵を秘めた貴重な歴史的資料といえよう」とも述べている。
百庚申はもともとは別の場所にあった
この百庚申は、もともとは元荒川堤防の近くにあった。明治43年(1910)の大水害のときには元荒川の決壊を防ぐために土嚢(どのう)がわりに使われたという。その後、三基が不明になり、関東大震災後にこの場所に移された。平成16年(2004)に、当時の大聖寺・住職によって三基が造立されて百基に戻った。
平成16年に追加された三基
上の写真の手前から三基が平成16年(2004)6月に建てられたもの。左側面に「平成十六年六月吉日」との銘が確認できる。
二猿を従えた青面金剛像付き百庚申供養塔
二猿を従えた青面金剛像付き百庚申供養塔。江戸後期・天保9年(1838)造立。聖天堂の裏手にある。
正面
正面は最頂部に日月、中央に邪鬼を踏みつけている一面六臂の青面金剛、台石には三猿が浮き彫りされている。
青面金剛
青面金剛像は劣化がかなりひどい。顔は崩れてしまっていて補修のあとがみられる。腕は六本。左上手に宝輪、左手にショケラ(女人=にょにん)、左下手に弓、右上手には三叉鉾(さんさぼこ)、右手に剣、右下手に矢を持っているのが、かろうじて確認できる。
邪鬼
青面金剛に踏みつけられている邪鬼は、顔の部分(青面金剛の左足下)だけは確認できるが、胴体や手足などの部分は、欠損と劣化によって見る影もない。
三猿
邪鬼の下の台石には三匹の猿が浮き彫りされている。青面金剛像と邪鬼同様、劣化かひどく、とくに真ん中の猿はほとんど原形をとどめていない。向かって左端の聞か猿と右端の見猿は確認できる。ということは、真ん中は言わ猿か?
この三猿について『大相模地区の石仏』加藤幸一(平成16・17年度調査/令和元年9月改訂)「大聖寺」の項(p52)に「中央の猿は男性の性器が(左端の)聞か猿は扇子を持って耳をふさぎ読書をしている姿が描かれている」とある。
中央の猿の股間に男性器?
中央の猿は男性の性器が描かれている? 言われてみると、中央の猿の股間に男性器らしきものがうっすらと確認できる。(上の写真の黄色い▲印)
造立は天保九年
左側面の主銘に「天保九季戊戌春」「真大山現住」「法印戒如代」とあることからこの石塔は江戸後期・天保9年(1838)に建てられたことが分かる。脇銘には「信心願主」「如意吉祥」と刻まれている。
この庚申塔はかなり痛んでいるが、よく観察してみると見事な描写であることがわかる。翌年の天保10年に造立された庚申塔(三猿の中央の聞か猿には陰部がみられる)の作者である青木宗義の作品と思われる。(この天保10年の青木宗義作の庚申塔は同じく東門参道にある。後述。2ページ目で紹介している)
百庚申供養|右側面
右側面の主銘に「百庚申供養」と刻まれている。脇銘は「天下泰平」「国家安全」。「百庚申供養」と刻まれているこの石塔は、東門参道(裏参道)に並べられている百基の庚申塔を統括すめために、百庚申供養塔として(百庚申が造られた三年後に)造られたものである。この石塔は、もともとは百庚申と並んで元荒川土手にあったが、百庚申が大聖寺の裏参道に移されたとき、いっしょにここに移された。
寄進者
百庚申を統括するために造立された供養塔だけあって、台石の全面には世話人をはじめ寄進者の名前がびっしりと刻まれている。その数150人余。村の名前は60近く確認できる。石工の名前は「越ヶ谷宿住人 小嶋長兵衛」とある。
二猿像
石塔の前に左右一対の丸彫りの猿像が置かれている。向かって右側の猿は腰を下ろした羽織姿。破損と劣化がひどく顔および右肩・左手・左膝に修復がほどこされている。台座には「庚申」と刻まれている。
向かって左手の猿像
向かって左手の猿は羽織を着て左足を右足の腿の上に組んで座っている。こちらの猿は右手と右足の膝からすねにかけて修復のあとがみられるものの顔や全体はきれいな状態に保たれている。台石には「供養」の銘がある。
この二猿像もうしろの百庚申供養塔とともにもともとは元荒川土手にあった。
「庚申塔青面金剛移転営繕由緒」碑
青面金剛像庚申塔(百庚申供養塔)の脇に、もともとは元荒川土手にあったこの石塔をここに移して修繕した経緯について記された石碑(庚申塔青面金剛移転営繕由緒碑)が建てられている。以下、碑面の全文を記す。
庚申塔青面金剛移転営繕由緒
庚申信仰は江戸時代多くの庶民の現世利益を求めるものでありしが明治以降まったくその影なし。しかしながらその願いは現世の世情においても変わることなし。当本尊は当山本堂裏手、元荒川堤防すそにあったもの(百庚申塚碑もそうであったが昭和三十年以後すでに現在の所に移設整備されている)なり。明治三十八年本堂大火災にあい、なおまた大正十二年の関東大震災等に遭い、その破損ははなはだしきものなれど今なおその形像を残している。しかるに今元荒川河川改修施工中その区域外とは云え、倒壊寸前状態の当本尊を移設営繕せしものなり
平成三年六月吉日
国家安穏
人心安寧
当山代四拾世 弘進代
石工 茨城県真壁町 細谷石材(株)引用元: 庚申塔青面金剛移転営繕由緒碑(大聖寺)
大聖寺の明治の焼失以前の境内の様子
※上の図(武州大相模不動尊全景)は越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏提供
上の図は、明治22年(1889)の二天門焼失、明治28年(1895)の惣門を除く全焼以前の大聖寺境内の全景。惣門が創建された文化元年(1804)から二天門の焼失の明治22年(1889)までの間に描かれたもの。本堂の裏(向かって右)に「百庚申」が描かれている。かつて、百庚申は塚の上にあった。
百庚申があった塚の跡
現在もその塚の跡が、元荒川右岸沿いの小道の大聖寺側に、かつての本堂の礎石とともに残っている(上の写真参照)。塚の上に点在しているのは、かつての本堂の礎石。上の写真の青い▼印は大聖寺本堂の屋根。「かつては塚の高さは背丈以上高かった」という話を越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏からうかがった。