2022年4月6日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは越谷市増林。勝林寺を中心に、5箇所・25基の石仏や石塔を巡った。越谷市内最古と思われる宝篋印塔墓塔や烏八臼(うはっきゅう)の文字が刻まれた墓塔を見ることもできた。

文化財パトロール|概要

石仏パトロール

NPO法人・越谷市郷土研究会では、毎年、越谷市内にある石仏や石塔の現状調査(文化財パトロール)をしている。今年度(令和4年度)は増林。増林地区を6エリアに分け、各エリア三、四人のメンバーで受け持ちの区域を見て回った。

石仏調査開始

勝林寺|駐車場

今回、私が配属されたのは勝林寺周辺の班。調査員は 4人。越谷市郷土研究会の顧問・加藤幸一氏(以下、加藤氏とする)も同行。午前9時。勝林寺の山門前で待ち合わせ。班長の尾川(おがわ)氏が、本日の調査箇所を説明。最初のチェックポイントに向かった。

ニワトリ小屋

ニワトリ小屋

勝林寺の山門を北西に進んだ右手(勝林寺・西側墓地の手前)に、ニワトリ小屋が見えた。小屋にいるのは烏骨鶏(うこっけい)のようだ。最近はニワトリ小屋もめっり見ることがなくなった。

移動|養鶏場跡

畑地

道を進むと畑地があった。班長の尾川(おがわ)氏の話では「かつてこの畑地は養鶏場だった」とのこと。勝林寺周辺には養鶏場がたくさんあったらしい。班長の尾川氏は勝林寺の檀家で、先祖代々増林に住んでいる。増林の生き字引のような方だ。
 
同行の加藤氏が補足をしてくれた。

加藤氏

増林地区は養鶏がさかんな土地でした。農家の半数が養鶏業を営んでいましたが、昭和50年ごろには、ほとんどが廃業してしまいました。

とうかん山跡

増林公園|グラウンド前

最初の調査地点、とうかん山跡に到着。勝林寺の北西およそ200メートル。現在は増林公園になっているが、かつてこのあたり一帯は畑地だった。

増林公園 多機能トイレ

増林公園の多機能トイレ裏手(上の写真の黄色い▼印のあたり)に、「とうかん山」と呼ばれた小高い山があった。小山の上には石塔があったが、現在、その石塔は勝林寺に移されている(後述)。

とうかん山の由来

「とうかん山」の「とうか」とは「稲荷」のこと。「稲荷の神」または「キツネの異名」を意味し、「とうか」の最後に「ん」を付けて「とうかん」と呼ぶこともある。
 
戦後までこの地域には野ウサギやキツネが棲んでいたことから、 加藤氏は「とうかん山のとうかんはキツネの異名である」としている。

加藤氏

私はこの小山に稲荷社があったからではなく、キツネの棲む穴があって、地元では「とうかん」と呼ばれていたのが、現在はその意味すら不明となってしまったと推測しています。


また、とうかん山には「落ち武者がここで葬られた」という言い伝えが残っていることも加藤氏が教えてくれた。
 
越谷市郷土研究会の山本泰秀(たいしゅう)氏が、故・星野龍雄氏から聞いた話によると「勝林寺にやってきた落武者の鎧や武者着を脱がせてここに埋めた」とも言われている。増林地区は先祖が落武者との話が多く伝わる地域である(加藤氏談)

移動|勝林寺へ

増林公園|グラウンド横

とうかん山跡から勝林寺へ向かう。班長の尾川氏が「昔はこのあたり一帯は畑で、(前方右手に見える)勝林寺の東と西にも養鶏場があった」といって、その場所を指し示してくれた。

勝林寺

勝林寺

勝林寺に到着。住所は越谷市増林2687。山門をくぐって右へ。

二基の石塔|文字塔・巡礼塔

二基の石塔

墓地の手前に二基の石塔が並んでいる。左側の石塔は平成9年(1997)3月造立の「馬頭観音」文字塔。裏面に建立年月日と施主名が刻まれている。右側は地蔵坐像を戴いた巡礼塔。

地蔵像付き百観音等巡礼塔

地蔵像付き百観音等巡礼塔

台石の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像が載っている石塔は、百観音等巡礼塔。江戸中期・享保16年(1731)造立。台石の正面には「為五穀成就地蔵菩薩」「為三界万霊六親眷属」、右側面には「享保十六辛亥年十一月廿四日」のほか造立主名が刻まれている。

巡礼先が刻まれた台石

台石

台石の左側面には「西國秩父坂東札所」「冨二士山湯殿山立山」「右諸願成就之供養為也」とある。これは、西国三十三箇所、秩父三十四箇所、坂東三十三箇所の巡礼と、富士山・湯殿山・立山の巡礼を終えた記念に建てられた巡礼塔である。

観音堂跡

観音堂跡

地蔵像付き百観音等巡礼塔のうしろ、鐘楼堂の脇に、かつて観音堂と呼ばれるお堂があった。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』増林村の項(※1)にも「勝林寺 観音堂」と記されている。

※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「増林村」175頁

庚申塔群跡

庚申塔群跡

また、勝林寺東側の墓地の一画に、空き地があるが、ここにはかつて庚申塔群が並べられていた。現在は境内の左奥に片づけられている。この庚申塔群は、このあと調査する。

十三仏板碑と庚申塔

十三仏板碑と庚申塔

境内の右手、盛土された場所に、二基の石塔、板碑(※2)と庚申塔が並んでいる。左側は、戦国時代・文明3年(1471)の十三仏板碑。完全な形で残されている貴重な史料。「文明三年十三仏板碑」の名で、越谷市の有形文化財・考古資料に指定されている。

※2 板碑とは、鎌倉・室町時代にかけて盛んに造られた石造りの供養塔=卒塔婆(そとば)のこと。板状の平たい石で造られたことから板碑と呼ばれている。板石塔婆(いたいしとうば)ともいう。

明覚禅師の文字庚申塔

明覚禅師の文字庚申塔

右側は、明覚禅師(みょうかくぜんじ)の文字庚申塔。江戸末期・万延元年(1860)造立。正面の主銘は「庚申塔」。左側面には「蔓延元庚申歳十二月」とある。文字塔の下に三猿が陽刻された中台、その下の台石には寄進者(世話人)五人の名前が確認できる。
 
石塔の正面左脇に「勅特賜明覚禅師□雲書」、右側面に「當山元住願寛山叟」と刻まれている。この庚申塔は、勝林寺の第21世住職の大道寛山(だいどうかんざん)大和尚が万延元年(1860)に建立したもの。

加藤氏

石塔に刻まれている書体は、朝廷から「大晃明覚」(だいこうみょうかく)の禅師号を賜った高僧・臥雲童龍(がんうんどうりゅう)大和尚の書体であることが分かりました。