越谷市野島の鎮守・久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)の石仏とと境内の風景を現地で撮影した写真とともにお伝えする。
野島久伊豆神社

創建年代は、つまびらかでないが、江戸後期に幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「野島村」の項に、「久伊豆社 村の鎮守とす、村民の持なり、」「末社 稲荷 疱瘡神」(※1)とあるのが、野島久伊豆神社のこと。
※1 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「野島村」150頁
『埼玉の神社』によると、「古くから野島の鎮守として崇(あが)められており、氏子は子供が生まれたときや七五三・成人式・嫁に行くときなど、人生の節目には必ず神社に参詣し、赤飯やおひねりなどを供えて手を合わせた」(※2)という。
※2 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「野島久伊豆神社」1216頁
それでは、境内の石仏を見ていく。
石仏と力石

拝殿を正面に見た左手にある鞘堂(さやどう)の中に、三基の石造物(文字塔・力石・庚申塔)が並べられている。
文字塔

向かって左手の文字塔は、「榛名山大権現・雷電宮」文字塔。石塔型式は笠付型。江戸前期・天保9年(1838)造塔。
正面|主尊銘

正面の主尊銘は「榛名山大権現」と「雷電宮」
風化と劣化がひどく、今はもう「大権現」と「宮」の文字しか読み取ることはできないが、昭和44年(1969)に越谷市編さん室から発行された『越谷市金石資料集』に、この文字塔の主尊名は、「榛名山大権現雷電宮」(※3)とあるので、それに従った。
※3『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)211頁
左側面

左側面(向かって右側面)の銘は、「天保九戊戌十二月吉日」(※4)。今は、劣化によって「□保九□十二月吉日」の文字しか読みとれない。
※4「天保九戊戌十二月吉日」は、平成14年(2002)に、この文字塔を調査した、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改定(越谷市立図書館所蔵)「『榛名山権現・雷電宮』文字塔」37頁に従った。
右側面

右側面(向かって左側面)は、劣化によって、銘は解読不能。かろうじて、左下に言偏(言=ごんべん)だけが確認できる。
加藤幸一氏の調査報告「荻島地区石仏」でも右側面については、「表面が破損しているため解読不能」とし、「講中」(こうじゅう)の銘だけが、解読されている(※5)
したがって、現在、目視で確認できる言偏の漢字は、「講中」の「講」と思われる。
※5「天保九戊戌十二月吉日」は、平成14年(2002)に、この文字塔を調査した、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改定(越谷市立図書館所蔵)「『榛名山権現・雷電宮』文字塔」37頁
力石

まんなかは力石(ちからいし)。江戸中期・享保19年(1734)奉納。「享保十九年」「野嶋村」「奉納力石三十二〆目」「□月吉日」の銘が読みとれる。
「〆目」は「貫目」と同義。力石には「貫」ではなく「〆」の文字が使われているものも見られる。32貫目は120キログラム。
力石とは、江戸時代から明治時代にかけて、力比べや体を鍛えるために使われた石のこと。村いちばんの力自慢を競ったり、村落対抗の力くらべなど、娯楽としても盛んだった。
力持ち大会で優勝した人の名前や持ち上げた石の重さなどを刻んで神社や寺院に奉納された力石も見られる。
『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』に、この力石について、「昔は境内にあった大小の力石を若い衆が持ち上げて力競(くら)べをするのがささやかな楽しみであった」「三十二貫(一二〇キログラム)の力石は、めったに持ち上げられる人はいなかった」(※6)と記されている。
※6 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「野島久伊豆神社」1216頁
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