東武伊勢崎線・元荒川橋梁南詰下の元荒川右岸側土手に小さな祠(ほこら)がある。土手沿いの道は越谷流山線(県道52号線)。越谷駅と北越谷駅のほぼ中間地点にあたる(越谷市宮本町一丁目)。元荒川の対岸には桜並木が見える。舟運が栄えていた時代、ここには船着場があった。お堂の中には、水をつかさどる「水神宮・弁才天」文字塔と、青面金剛庚申塔、二基の石仏が安置されている。

元荒川橋梁

祠の斜め後方、元荒川に架かる歩道橋は、東武鉄道の旧元荒川橋梁を再利用したもの。その横を東武伊勢崎線の高架橋が通っている。旧元荒川橋梁は明治32年(1899)に東武伊勢崎線が開通したときに架けられたが、平成13年(2001)に、立体交差化に伴い役目を終え、歩道橋(遊歩道)として新しい役割を担っている。

遊歩道

歩道橋は半屋根付きアーチ型。スロープになっているので、歩行者だけてはなく自転車も通れる。通路の両脇に手すりもついているので高齢者にもやさしい。車椅子の通行も可能。

元荒川

上の写真は歩道橋から元荒川の上流を望んだ景色。右手の土手沿いには桜並木が続いている。左斜め下に赤い屋根の祠が見える。祠の前の道は越谷流山線(県道52号線)。元荒川右岸土手は、埼玉水辺再生100プラン計画の一環で、遊歩道として整備されている。遊歩道は、祠の場所を起点に、800メールほど先にある神明橋下まで続いている。

石仏

木祠

二基の石塔が安置されている場所は、越谷市の宮本町と越ヶ谷本町(旧・四町野村と越ヶ谷町)の堺にあたる。木祠はかなり傷みがはげしい。トタン屋根はしっかりしているので風雨はしのげている感がある。祠の軒先に貼られた注連縄には紙垂(しで)が付けられ、石仏の前には御幣(ごへい)が立てられている。花や日本酒が供えられ、小さな陶器の賽銭箱も置かれている。きちんと管理され、日々、手を合わせる人も多いようだ。

青面金剛像庚申塔

青面金剛庚申塔

左側にあるのが、江戸後期・文政2年(1819)の青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう)。石塔型式は頭部山状角柱型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面には「文政二己卯年」と刻まれている。右側面は、祠の壁に接しているため解読できない。

「水神宮・弁才天」文字塔

「水神宮・弁才天」文字塔

右側は、江戸後期・文政7年(1824)の「水神宮・弁才天」文字塔。石塔の型式は祠型。正面に向かって左側に「(梵字・バ)水神宮」、右側に「(梵字・ソ)辨才天」と刻まれている。梵字の「ソ」は弁才天、梵字の「バ」は水天を表わす。左側面には「文政七甲申年三月吉日」、右側面には「大野氏」(※1)とある。

※1 大野家は、祠と道路を挟んだ向かい側にある旧家。『出羽地区の石仏』加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改定)に、この二基の石仏について「(二基とも)もとは大野家の敷地内にあった。(現在も)大野家が管理している。」と書かれていることから、この「水神宮・弁才天」文字塔は大野家が建立したものであることが分かる。もしかしたら青面金剛像庚申塔の右側面にも「大野氏」と刻まれているかもしれない。

大野家の由緒と功績

大野家は、江戸時代、材木業で財をなした資産家。当時は、祠の前(元荒川橋梁下あたり)に、河岸場(船着場)があり、元荒川に舟を浮かべて材木を運んでいた。現在、大野家の敷地の一部は、八階建てのマンションになっている。大野家には、第15代将軍・徳川慶喜や皇族の方々が、民情視察や鷹狩りのさいに、大野家に宿泊した記録も残っている。

大野家の由緒銘板

由緒銘板

現在、大野家の敷地(マンションの角地)に、大野家の由緒と、徳川慶喜をはじめ旧屋敷に逗留した皇族の名が記された、由緒銘板が立てられている。逗留者名には、ヒゲの殿下の愛称で親しまれた三笠宮崇仁(みかさのみやともひと)親王やゴルフの宮様の名で知られる朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこ)殿下の名もある。
 
大野家の由緒銘板に刻まれた銘文。以下引用(逗留者の芳名は割愛)

上古、この辺りは万葉集に歌われているように海が深く湾入し、その痕跡として地下に貝殻層が広がっている。
 
明暦三年(西暦一六五七年)の振袖火事により江戸城本丸や市街の大部分が焼失、その再建の為御殿町にあった越ヶ谷御殿(※2)が解体移築されるまで、家康や秀忠が視察を兼ねて鷹狩りに越ヶ谷郷を度々訪れていた。
 
昔、元荒川は荒川の本流で多くの交通は川を中心に発展した。此所は旧越ヶ谷町と四丁野村の堺で、江戸との運搬に元荒川を利用、前の堤に石積みの河岸や河船・筏があった。
 
澄み切った青い空の向こうには冠雪した富士山・日光連山・筑波嶺がどこからでも見渡せ、清澄な水を湛える河川には藻や水草が繁茂、鰻・鯰・海老・蜆等が沢山生息し、往時を偲ぶに余りある風情であった。
 
江戸後期・此処に三連蔵や文庫・庭園のある大きな屋敷を構えたが、時の流れにより文庫の一部は久伊豆神社境内に遷された。尚、堤で春を告げる千二百本(当初)の桜は、昭和三十一年当屋敷から移植寄贈したものである。
 
平成十八年三月吉日 建立

越ヶ谷御殿(こしがやごてん)

※2 江戸時代、元荒川の流域付近(現在の越谷市御殿町)に、徳川家康によって造営された鷹狩り用の御殿。越ヶ谷御殿と呼ばれた。明暦3年(1657)の江戸大火(振袖火事)で江戸城が全焼したために、急きょ越ヶ谷御殿を解体し、資材を舟で江戸に運んで、江戸城再建に使用した。現在、越ヶ谷御殿跡地には記念碑が建てられている。

由緒銘板には、昭和31年に、大野家が1200本もの桜の苗木を寄贈して元荒川土手に移植したことも記されている。現在、北越谷元荒川堤は、越谷市の桜の名所として、毎年、多くの花見客でにぎわうが、その礎を築いたのは大野家である。その功績は大きい。

元荒川の桜の歴史

元荒川の桜

明治時代、日露戦争勝利の記念事業として、元荒川土手に桜が植えられ、昭和30年(1955)ごろまで花見ができた。昭和15年(1940)には、紀元2600年を記念して、明治の桜(日露戦争勝利記念)に続いて、元荒川土手に桜が植えられ「興亜の桜」(こうあのさくら)と呼ばれた。その後、昭和30年に、道路拡張工事で桜の木は切られてしまい、花見がてきなくなった。
 
それを憂い、昭和31年(1956)、大野家が 1200本の桜の苗木を寄贈。元荒川の両岸に植樹された。のちに、宮本町と神明町側の土手道(元荒川橋梁と新明橋の間)の桜は、交通の妨げになるとの理由で伐採されてしまった。しかし、残された元荒川左岸側の桜並木は、今では、越谷市を代表する桜の名所になっている。

交通案内

祠|越谷市宮本町一丁目

元荒川橋梁南詰下の石仏

住所は埼玉県越谷市宮本町1-1-11北( 地図 )。東武伊勢崎線・越谷駅から約600メートル。徒歩約8分。元荒川橋梁南詰下、元荒川右岸側土手。越谷流山線(県道52号線)が、東武伊勢崎線の高架橋をくぐるT字路にある信号が目印。道路沿いなので車を駐めるスペースはない。