越谷市弥十郎の地蔵堂(通称・やぼの地蔵堂)と呼ばれる小さな墓地にある石仏を調査した。堂舎の中には石の地蔵菩薩立像が安置されていて、十九夜塔や六地蔵、阿弥陀如来像のほか、江戸時代、幼くして亡くなった子どもたちの墓石が数多く並べられていた。

やぼの地蔵堂

やぼの地蔵堂|越谷市弥十郎

調査したのは 2022年8月25日。まずは地蔵堂について簡単に触れておく。
 
ここは地蔵堂と呼ばれた寺の跡(※1)で、江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』には「地蔵堂 観照寺の持」(※2)と記されている。
 
また、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は次のように述べている。

地元では昔からこの場所は『やぼ』と呼ばれ、幼い子どもの墓塔が並んでいる。『やぼ』は野の墓という意味か。以前は幼い子供がなくなると、ここに埋葬された。
 
毎年地蔵盆の八月二十四日の前夜に地元の人たちがこのお堂を参詣している。このとき、お堂にあげて短くなったロウソクを家に持ち帰り、出産のときにこのロウソクを使うと燃え尽きるまでには安産ができるという言い伝えが残っている。

※1 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)104頁

※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「弥十郎村」の項、141頁

※3 「新方地区の石仏」加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)越谷市立図書館所蔵「『やぼ』の地蔵堂」72頁

堂舎

堂舎

堂舎には、本尊の地蔵菩薩が安置されている。

本尊|地蔵菩薩立像

地蔵菩薩像

扉を開けると、ご本尊が姿を表わした。地蔵像の上の壁には「地蔵尊」と書かれた扁額が掛けられている。

お顔

お顔

本尊の地蔵菩薩像。じつにやさしいお顔だ。

寛文3年(1663)造立

地蔵菩薩像

石塔型式は舟型光背型。江戸前期・寛文3年(1663)造立。石塔の正面に主尊の地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。脇銘は、向かって右手に「奉建立地蔵為二世安楽也」「新方領弥十新田村」、向かって左手に「寛文三癸卯年十月吉日」「本願南敬院」と刻まれている。

石塔群

石塔群

堂舎に向かって右手のフェンス沿いに、墓石や石仏が 13基並んでいる。

六地蔵

六地蔵

舟型の石塔に浮き彫りされた六体の地蔵が。造立年代は不詳。
 
六地蔵の持物(じもつ)は、向かって左端の地蔵から①天蓋(てんがい)②右手に錫杖(しゃくじょう)左手に宝珠(ほうじゅ)③合掌(がっしょう)④数珠(じゅず)⑤幢幡(どうばん)⑥香炉(こうろ)……。

天蓋

天蓋を持つ地蔵

天蓋(てんがい)を持つ地蔵。顔が欠けてしまっている。

錫杖・宝珠

右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵

右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ地蔵

合掌

合掌する地蔵

合掌する地蔵

数珠

数珠を持つ地蔵

数珠(じゅず)を持つ地蔵

幢幡

幢幡をもつ地蔵

幢幡(どうばん)をもつ地蔵

香炉

香炉を持つ地蔵

香炉(こうろ)を持つ地蔵。顔の正面が欠けてしまっている。

十九夜塔

十九夜塔

十九夜塔(※4)。江戸後期・文化10年(1813)。石塔型式は舟型。正面の最頂部に「十九夜」と刻まれた、中央部に主尊の如意輪観音坐像が陽刻されている。左側面の脇銘には「文化十癸酉年」「十一月吉日」「願主村中」「世話人 市右衛門 与惣兵衛 源助」とある。

※4 脇銘は劣化により読みとれない箇所が多かった。脇銘については、「新方地区の石仏」加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)越谷市立図書館所蔵「『やぼ』の地蔵堂」72頁に従った。

十九夜とは

如意輪観音

十九夜(じゅくや)とは、旧暦の19日の夜に女性たちが集まって飲食をともにし、歓談しながら十九夜の月の出を拝む行事のこと。月待(つきまち)とも呼ばれる。十九夜を行なった記念に建てたのが十九夜塔。如意輪観音を主尊として陽刻されていることが多い。

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首のとれた地蔵像

首のとれた地蔵像

十九夜塔の隣に首のとれた丸彫りの地蔵像が置かれている。年代は不詳。地蔵の首がとれているのは、明治初年の排仏棄釈(※5)運動によるものかもしれないが、詳細はわからない。

※5 明治初年(1968)、神道を国の宗教にするために、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が発令され、全国で多くの寺院や仏像などが破壊・焼却された。このときの破壊運動を「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)という。

墓石

六地蔵や十九夜塔といっしょに墓石が五基並んでいる。

無縫塔

無縫塔

無縫塔(むほうとう)。年代は不詳。刻まれている文字は風化が進んでいて読みとれない。無縫塔は僧侶の墓塔。ここが寺だった時代の僧侶の墓塔かもしれない。また、無縫塔は、卵形の形をしていることから、卵塔(らんとう)とも呼ばれる。

僧侶の墓塔

僧侶の墓塔

こちらも僧侶の墓塔。最頂部に阿弥陀如来を表わす梵字「キリーク」、主銘に「光善法師」と、戒名が刻まれている。「法師」は僧侶に付ける戒名。
 
脇銘はほとんど読み取れないが「嘉」という文字が確認できるので、江戸後期・嘉永年間に建てられたものと思われる。

子どもの墓塔三基

子どもの墓塔

地蔵菩薩立像が浮き彫りされている舟型の石塔は、三基とも子どもの墓塔。「童女」「童子」とある戒名が、それぞれの墓塔に、二、三人ずつ刻まれている。江戸前期・貞享3年(1686)丙寅、江戸中期・享保14年(1729)などの年代が、確認できる。

墓地

墓地

墓地には子どもたちの墓塔が 100基近く並べられている。古いものでは江戸前期。江戸時代のほかには明治・大正・昭和。新しいものでは平成に建てられた墓石もある。

阿弥陀如来像

阿弥陀如来像

墓地の一画にある阿弥陀如来像。江戸前期・寛文4年(1664)造立。石塔型式は舟型。石塔の正面に阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。脇銘に「南敬院 宝誉林相権大僧郡 法印」「寛文四辰年」「八月廿四日」のほか施主名が刻まれている。

慈悲深いお顔

阿弥陀如来像

慈悲深いお顔だ。越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は、もともとはこの阿弥陀如来像は他から移転してきたものである、と述べている(※6)。

※6「新方地区の石仏」加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)越谷市立図書館所蔵「『やぼ』の地蔵堂」72頁

子どもたちの墓石

子どもたちの墓石

墓地内の子どもたちの墓石。江戸・明治・大正・昭和・平成……。その数およそ100基。立ち入るのは不謹慎なので、風景だけ写真に残しておく。

子どもの墓石(1)

子どもの墓石(2)

子どもの墓石(3)

寛文・享保・寛保・宝暦・明和……。子供の死亡率が高かった時代とはいえ、小さな子どもを亡くした親御さんの気持ちを思うと胸が痛む。早世した子どもたちの御魂は今も地蔵堂で見守られている。

場所

やぼの地蔵堂|越谷市弥十郎

やぼの地蔵堂の住所は、埼玉県越谷市弥十郎747-1( 地図 )。郵便番号は 343-0047。場所は、ケーズデンキ越谷店・駐車場の北、明光サッカースクール越谷インドア校の南。茨急バス・弥十郎自治会館入口からすぐ。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、石仏や石塔の金石文を確認するさいに、関係書籍や調査報告書とも照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。

参考文献

加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)