家康・世良田から日光へ

家康についての疑問

家康についての三番目の疑問、遺骸(いがい)はどこにあるのか? ということを検証してみましょう。

遺骸はどこにあるのか?

家康は元和2年(1616)4月17日(1616年4月1日)に駿府城(すんぷじょう)で没すると、静岡市の久能山(くのうざん)に運ばれ、埋葬されています。遺言で、久能山に遺体を納め、東京都港区の増上寺で葬儀を行なったら、一周忌のあとに、日光山(にっこうさん)に小さな室を建て、勧請(かんじょう)せよと指示しています。

宮川進氏

久能山から日光へ、遺体を移したかどうかが疑問なのです。


徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した天海僧正(てんかいそうじょう)が、「あれはある奈け連は奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」(あればある なければないに 駿河なる くのなき神の 宮遷しかな)という和歌を残しています。
 
この句の「くのなき」の「く(軀)」は「亡骸」(なきがら)を意味し、亡骸のない宮遷し、つまり、家康の亡骸は日光には移されていない、と読み解かれています。

宮川進氏

久能山に家康の遺体を土葬しているのです。

それを掘り起こして日光へ運びますか? ちょっとむずかしいように思います。家康の霊魂を日光へ移したのではないでしょうか。霊を移すとか、分霊(ぶんれい)とかもあると思います。
 
遺言の「勧請」(かんじょう)とは、そういうことだと思われます。

埋め墓は久能山、詣り墓は日光

土葬が主流だった時代、両墓制(りょうぼせい)という習俗がありました。
 
遺体を埋めた墓を「埋め墓」(うめばか)、お詣りをする墓を「詣り墓」(まいりばか)と呼んで、埋めるのは遠くで行ない、お詣りをするのは近くて便利な場所で、という二つの墓を持つ制度です。
 
主に関西方面で行なわれていましたが、越谷のお隣の岩槻あたりでも行なわれていました。

宮川進氏

家康の亡骸がある埋め墓は駿河(久能山)、詣り墓は日光、と私は思っているのですが、いかがでしょうか。


亡骸も全部日光に持っていったという説のほうが多いようですが……。

家康の死因

俗説では、家康の死因は、鯛(たい)の天ぷらを食べ過ぎて、腹痛を起こしたのが原因であると言われています。私は、食べてから四か月もたって死亡するのは、食中毒ではありえないと思います。今は、胃がん説が有力です。
 
余談ですが、家康には、世良田二郎三郎元信(せらだ じろうさぶろう もとのぶ)という影武者がいたという説がございます。

瀬名姫(築山殿)と信康の悲劇

瀬名姫/築山殿(出典:ウィキペディア)

宮川進氏

続きまして、家康の正室・瀬名姫(築山殿=つきやまどの)と、二人の子どもである信康の悲劇についてお話しします。


瀬名姫(せなひめ)は、今川義元の重臣・関口親永(せきぐち ちかなが)と義元の妹の子で、義元の姪(めい)にあたります。色白の美人だったと言われています。
 
家康は、8歳から19歳までの間、今川氏の人質で、16歳のときに瀬名姫と結婚しました。瀬名姫は家康と同じ年か、年上だったようです。家康は義元の直臣(じきしん)となっていて、瀬名姫との間に、亀姫と信康が生まれます。
 
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで、義元が死去。家康はなんとか自分の城である岡崎城に戻りましたが、駿府城の瀬名姫・亀姫・信康は逃れることができず、義元の息子・氏真(うじさね)との人質交換交渉で、やっと三人を取り戻しました。
 
そして、信長との清州同盟(きよすどうめい)のあと、信長の長女・徳姫が家康の妻となりました。
 
徳姫が父親である信長に出した手紙に「夫と姑の悪行、築山殿と唐人医師との密通、今川氏への内通」などが綴られていたため信長が激怒。家康に信康の処刑を命じ、天正7年(1579)、信康は切腹、瀬名姫(39歳)は殺害されました。

次男・秀康の悲劇

徳川家康の次男・秀康(出典:ウィキペディア)

家康の長男・信康の死後、本来なら次男の秀康が天下を継ぐべきところですが、三男の秀忠が二代目将軍となりました。

宮川進氏

なぜでしょうか?


秀康の母が、築山殿の女中・おまんで、秀忠の母は西郷局(さいごうのつぼね)だったからでしょうか。西郷局は美人で温和な性格だったからでしょうか。
 
秀忠は、小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)で、家康が秀吉に負けたとき、養子(実質は人質)に差し出されて大阪城入りし、その後、秀吉にかわいがられ、羽柴を名乗ったことがあったからでしょうか。
 
その後、秀康は結城氏の養子になり、関ヶ原の戦いののち、松平姓に復姓。越前に移封移封(いほう)され、惜しくも34歳で病死しています。

当時は戦国の世

信長は比叡山攻めで、全山焼き討ちし、死者は3,000人から4,000人といわれています。秀吉は跡継ぎにしようと思っていた甥の秀次を、秀頼が生まれたために、本人のみならず、子供や妻妾(さいしょう)ら43人全員を斬首しました。

宮川進氏

このように、今の時代と違って、当時はお互い人命尊重なんて考えのない時代ですから、家康だけが責められるというものでもありません。