2022年10月18日。「家康・世良田から日光へ」と題し、越谷市北越谷地区センターで「歴史探訪講座」が開かれた。話し手はNPO法人越谷市郷土研究会の宮川進氏。徳川氏・徳川家康の歴史と徳川家の悲劇について語ってくれた。
はじめに
本記事は、話し手を務めたNPO法人越谷市郷土研究会・宮川進氏の講話内容を抜粋し、当日の雰囲気が伝わるよう、話し言葉にして綴ったものである。あくまでも要約なので、宮川氏が話した言葉を一字一句忠実に再現しているわけではない。
家康・世良田から日光へ
みなさんこんにちは。宮川です。「歴史探訪講座」の一回目と二回目は、家康と越谷についてお話しいたしました。三回目の今日は、徳川氏と家康の歴史、徳川家の悲劇などについて話をさせていただきます。
- 徳川の平和
- 徳川氏の歴史
- 家康についての疑問
- 瀬名姫(築山殿)と信康の悲劇
- 次男・秀康の悲劇
- 家康の名言
最初に「パックス・トクガワーナ」、「徳川の平和」がはじまった家康の時代についてお話しします。
徳川の平和
徳川家康公尊像(浄山寺)
パックスとは、ローマ神話の「平和と秩序」の女神です。最初のパックス・ロマーナは、紀元前27年、アウグストスがローマ皇帝に就いたときから始まり、紀元後180年のアウレリウス帝が亡くなったときまでの206年間です。
「徳川の平和」は、家康が征夷大将軍になった 1603年(慶長8年)から、江戸城明け渡しの 1868年(慶応4年=明治元年)までの265年間。
265年というのは、中国前漢の214年、後漢の196年、唐の290年、明(みん)の277年、清(しん)の297年と肩を並べられる年数です。
徳川氏の歴史
続いては、江戸幕府公認の松平氏発祥譚(はっしょうたん)、徳川氏の歴史について、お話しします。
徳川氏のなかでももっとも著名な三河徳川氏は、清和源氏(せいわげんじ)新田義重(にった よししげ)の四男・四郎義季(しろう よしすえ)に始まります。
義季は、現在の群馬県太田市尾島町(おおたし・おじまちょう)にあたります上野国(こうずけのくに)新田郡(にったぐん)世良田郷(せらだごう)徳河(とくがわ)の地を分与され、徳川(または得川)を名乗りました。
6代目の政義は、新田義貞に従って、対・北条戦などを戦いましたが、その後、新田氏の本家筋である足利氏からの迫害を受けて、本願の地を退去し、時宗(じしゅう)の僧となって諸国を流浪しました。
足利氏と新田氏は、源義家の次男・源義国の次の代で、長男の義重が足利氏を出て新田氏を称し、次男の義康が足利氏を継いだという複雑な関係にあり、有効的ではなかったようです。
h5>松平八代
九代目・親氏(ちかうじ)の代に、三河国(みかわのくに)加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町=まつだいらちょう)の土豪・松平信重の娘婿となり、松平氏を継いだのが、源氏姓の松平氏の始まりで、その九代後裔(こうえい)にあたる家康の代に「徳川姓」に複姓したといわれています。
この親氏(ちかうじ)から家康の父・宏忠までの八代を「松平八代」と称し、徳川将軍家の直接の祖先としています。(※1)
※1 平凡社『世界大百科事典 第2版』による。
家康についての疑問
家康についての疑問をいくつか検証してみましょう。
家名について
松平氏は、賀茂神社と関係のある加茂氏とのつながりがある、と、主張したこともあり、また、家康は藤原氏につながると称したこともあったようです。
家紋について
新田家と徳川家の家紋(出典:ウィキペディア)
徳川家の家紋は、永禄9年(1566)に、松平から徳川に復氏(ふくうじ)したさいに、新田氏の家紋「大中黒・一つ引両」(おおなかぐろ・ひとつひきりょう)にすべきだったのに、松平氏の家紋「三つ葉葵」(みつばあおい)にしたのは、間違いでした。
藤原氏の家紋の藤を使ったこともないですし、一派を名乗るなら、やっぱり家紋もしかるべく使ってほしかったですね。一貫性がなく、主張するだけでは、かえって信憑性(しんぴょうせい)に欠けてしまいます。
昔は、先祖がとの名門につながっているかどうかで、上の位(くらい)とか職位に就けるかどうか、ということがあったので、無理したのでしょう。今はそういうことがない世の中でよかったですね。