真正寺跡|増森新田センター
増森新田センターに到着(越谷市増森二丁目)。ここにはかつて真正寺(しんしょうじ)というお寺があった。今は自治会館と共同墓地になっている。
百八十八箇所巡礼塔
墓地の一画に、江戸後期・天明8年(1788)の百八十八箇所巡礼塔がある。主銘には「奉供養百八十八箇所二世安楽攸」と刻まれている。末尾の「攸」は「ところ」と読む。「所」と同義。
無縁塚で庚申塔を発見
墓地には無縁塚もある。案内役の秦野氏が、無縁塚の中から、今まで所在が不明だった青面金剛像庚申塔(※6)かもしれない二基の石仏を発見した。
※6 越谷市内の石塔や石仏を調査してまとめた『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)に増森新田真正寺には二基の青面金剛像庚申塔があることが記されているが、その所在はずっと不明だった。今回、秦野氏が無縁塚で発見した庚申塔は、その二基かもしれない、とのことであった。
青面金剛像庚申塔(1)
青面金剛像庚申塔(2)
どちらの庚申塔も風化で銘文が読みにくくなっているので、今回、年代を断定するには至らなかった。また、この二基の石仏が、『越谷市金石資料集』に記されている所在不明の庚申塔かどうかを断定するには再調査が必要とのことなので、ここでは「無縁塚の中から二基の青面金剛像庚申塔が見つかった」としておく。
増森新田稲荷神社
11時25分。増森新田センター(真正寺跡)の次に立ち寄ったのは増森新田稲荷神社。越谷市消防団増林分団第四部小屋の裏手にある(越谷市増森二丁目)。「正一位稲荷神社」と書かれた神額が掛けられた石鳥居の先に小さな社殿。境内はこぢんまりとしている。
四基の庚申塔と弁財天の祠
社殿に向かって右手に四基の庚申塔と弁財天の祠がある。庚申塔は四基とも青面金剛が浮き彫りされている。向かって右端と左から二番目は合掌型。左端と右から二番目は手に剣を持っている。庚申塔の横にある水色のトタン屋根の祠には「弁財天」文字塔が安置されている。
「弁財天」文字塔|弁天社跡の証
祠の中の「弁財天」文字塔。劣化がひどく「辨」(弁)の文字がかろうじて読みとれる。この石塔の右側面には「当村 別当 真正寺」と刻まれている。「当村」とは増森村。「別当」(べっとう)とは神社を管理する寺のこと。
同行した加藤氏が、「真正寺は先ほど立ち寄った増森新田センターのところにかつてあった寺で、弁天社を所有していた。(この弁財天文字塔は)それを物語る石塔といえる」と、話をしてくれた。
「大六天」文字塔
社殿に向かって左手に小さな祠がある。中に「第六天神宮」と刻まれた祠型の石塔が安置されている。もとは増森の名家の敷地内にあったという。
紙面の都合で各石仏の年代や銘文などの解説は割愛する。
新田橋
増森新田稲荷神社を出て、20メートルほど先にある新田橋(しんでんばし)を渡る。新田橋は、昭和4年(1929)に木橋からコンクリート橋に架け替えられた。新田橋と並行して通っているのは新方川水管橋。
新田橋を渡って右へ
新田橋を渡って右へ。新方川右岸の遊歩道(新方川緑道)を上流に向かって進む。
記島河原公園
新田橋から新方川緑道を上流に向かって150メートルほど歩くと、土手下に、すべり台とブランコなど遊具のある小さな公園がある。公園の名前は記島河原公園(きじまかわらこうえん)。遊歩道を左に折れて土手を降り、公園横の小道を直進。南へ進む。案内役の秦野氏から「ここは下千間堀の分流跡」という説明があった。
元荒川左岸|樋門前
200メートルほど歩くと元荒川の左岸に出た。正面前方に水色の樋門が見える(上の写真の黄色い▲印)
清学院跡・大六天社跡
元荒川を背に北(今通ってきた道の方向)を望む。案内役の秦野氏が「かつてこの先に清学院(せいがくいん)という修験道のお寺と、清学院が所有する大六天社があった」という話をしてくれた。
移動|森西川自治会館へ
元荒川左岸沿いの道を上流に向かって進む。次に立ち寄る場所は森西川自治会館。今回の史跡巡りの目玉のひとつである越谷市最古の石仏を見学する。しばらくやんでいた雨がまた降ってきた。先を急ぐ。