元荒川に架かる〆切橋(越谷市南荻島)が、老朽化のために、2021年4月30日をもって閉鎖。5月1日から全面通行止めになった。昭和12年(1937)に架橋され84年余。地元の住民にとっては生活必需の橋でもあった。写真とともに〆切橋を偲ぶ。

〆切橋|2023年7月12日から再開通

〆切橋|再開通

2023年7月12日。補強工事を終えた〆切橋が人道橋として再開通した。越谷市議会でも〆切橋を残すかどうかが議論されたが、補強をしたうえで、人道橋として、今後も存続することになった。

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〆切橋の歴史

〆切橋(しめきりばし)ができたのは、315年前の江戸中期・宝永3年(1706)。当時は木造の土橋であった。現在の橋はコンクリート橋。昭和12年(1937)に架橋された。
 
地図で見ると、元荒川は、大砂橋から100メートルほど先の下流部分(大竹地先)で南東に曲流し、元荒川橋まで真っすぐな流路になっているが、昔は違っていた。

〆切橋ができる前の元荒川は、大竹地先から北に流路を変え、袋山村(現在の袋山地区)を取り込むようにして、恩間・間久里・大里・大林の各村を通りながら、ぐるりと曲流し、草加バイパス(国道4号線)に架かる元荒川橋の下までを大きく迂回して流れていた(画像の黒い線が昔の元荒川の流路)
 
袋山を曲流する元荒川の沿岸地域は、大雨のつど水害を受けていたので、宝永3年(1706)に、元荒川の改修工事が施工された。この工事で、大竹と大林の曲流口(写真の▲印)が〆切られ、流路が直流になった。
 
川の流れがまっすぐになったことで、荻島村は元荒川で東西に分断されてしまった。流路が〆切られたことによって切り離された二つの地域を結ぶために架せられた橋なので、〆切橋と呼ばれるようになった。分断された(締め切られた)元荒川の左岸の荻島村は以後「〆切り部落」(※)と呼ばれるようになった。

※ 「〆切り部落」の名称は歴史的名称。「被差別部落の部落」ではなく「江戸時代のころの村を表わす部分集落の略称」なので、当時の時代を示す言葉(歴史的記述)として、そのまま表記した。

〆切橋はかつては車の通行も可能だったが、老朽化が進む橋の耐久性と、歩行者の安全性確保のため、平成17年(2005)に、自動車の通行が制限された。橋脚補強や耐震点検なども実施されてきたが、劣化の進行が著しくなったために、令和3年4月30日をもって、全面閉鎖となり、〆切橋は役目を終えた。

参考文献

『市政施行40年の足跡~ときを超えて』越谷市政40周年記念誌編集委員会(平成10年11月発行)「橋ものがたり」p96
『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「元荒川の改修路」pp135-136
『越谷市史(一)通史上』越谷市役所(昭和50年3月30日発行)第五章 越谷地域の河川と用水「元荒川の改修」pp624-626
『越谷市の史跡と傳説』越谷市教育委員会/越谷市文化財調査委員会(昭和34年4月15日発行)大袋地区の史跡と伝説について 四、治水事業について「元荒川の改修」pp42-43
「〆切橋の名前の由来」越谷市郷土研究会・増岡孝司(平成17年度 第37回 越谷市民文化祭 郷土研究の部・展示作品)

風景写真

大野島越谷線から〆切橋を右手に望む。

〆切橋の風景を写真に収めた。撮影年月日は、2021年4月6日。時間は午前10時半。天気は曇り。元荒川の土手では菜の花が咲いていた。上の写真は元荒川の左岸側・下流方面(大野島越谷線)から〆切橋を正面に見た風景。個人的には、ここからの景色がいちばん気に入っている。

大野島越谷線からの風景

大野島越谷線から〆切橋を左手に望む。

元荒川の左岸側・上流方面(大野島越谷線)から〆切橋を左手に見た風景。土橋の時代には、馬や駕籠も通ったかもしれない。300年間で、延べ何人ぐらいの人が通ったのだろうか。

出口

出口

橋の出口正面(元荒川左岸側)。車が通れないように車止めが設けられている。最近まで自動車が交互通行で通っていた時代もあった。もうここを通れないのかと思うと感慨深い。

橋名板|もとあらかわ

橋名板(もとあらかわ)

橋名板(きょうめいばん)には、ひらがなで「もとあらかわ」と刻まれている。一般的に、橋名板に漢字表記されているほうが橋の入口で、ひらがな表記が出口。なので、こちら(元荒川の左岸側)は〆切橋の出口になる。
 
ちなみに、橋の名前をひらがなで表記する場合、「しめきりはし」など、濁点をつけずに書かれていることが多い。これは川の水が濁らないようにという意味があると言われている。もちろん濁音表記されている橋もある。

中央付近

中央付近

〆切橋の中央付近。出口側(元荒川左岸側)から入口側(元荒川右岸側)を望んだ風景。左手は下流、右手は上流。前方の地区は南荻島と砂原。

上流側

上流側

〆切橋から望んだ上流側の風景。前方左から曲流してきているのが分かる。写真では見えないが400メートルほど上流に越谷岩槻線(元荒川右岸側)と大野島越谷線(元荒川左岸側)を結ぶ大砂橋が架かっている。

下流側

下流側

〆切橋から望んだ下流側の風景。左手の道路は大野島越谷線。正面前方に見えるのは、草加バイパス(国道4号線)に架かる元荒川橋。〆切橋から元荒川橋までの距離は約400メートル。元荒川橋の先には、越谷梅林公園と宮内庁埼玉鴨場の森が見える。

信号待ちをしている小学生

信号待ちをしている小学生

〆切橋の中ほどから出口に目を向けると、越谷岩槻線の横断歩道で、信号待ちをしている四人の小学生(男子)がいた。〆切橋を渡るようだ。

自転車で〆切橋を渡る小学生

自転車で〆切橋を渡る小学生

信号が青になって、男の子たちが自転車で〆切橋を橋の入口のほうに向けて渡って行った。いい光景だ。彼らは今月で〆切橋が通行止めになることを知っているのだろうか。

入口付近

入口付近

自転車の小学生たちが通り過ぎたあとを追って入口付近に向かう。正面に車止めが見える。前方は十字路。左は国道4号線(元荒川橋)方面、右は大砂橋方面。前方(南西)に進んでいくと500メートルほどで越谷岩槻線にぶつかる。この道は古道で江戸時代は岩槻城に向かっていた。元荒川に沿って南東に行く道(写真では向かって左の道)も古道で、出津の高土手(西側は出津、東側は堤根)だった古道に通じる。

入口|正面

口|正面

入口正面(元荒川右岸側)から〆切橋を望む。橋名板は昭和12年(1937)に架橋されたときのもの。歴史を感じる。

橋名板|〆切橋

橋名板(〆切橋)

橋名板には「〆切橋」と刻まれている。漢字で表記されているので、こちらが入口。そして2021年4月30日をもって通行も〆切りとなってしまった。

閉鎖を惜しむ声

〆切橋を三輪バイクで渡るヤクルトレディ

〆切橋の全面通行止めを Facebook で発信したところ、閉鎖を惜しむコメントが50件ちかく寄せられた。名前と性別は伏せて一部紹介する。

20年ほど前は通勤で毎日渡っていた橋です。そのころは車も通れたんですよね。なくなってしまうのはとても淋しいです。

せんげん台方面から元荒川の土手をジョギングし、この橋をよく渡りました。

自転車で大袋方面に行くときは必ずこの橋を渡っていますが、ないと不便になるなぁ…。

昔(30年くらい前?)はこの狭い橋を車で渡っていました。車が通れなくなってからは一度も渡ることはなかったけど、なくなってしまったら寂しいですね。

自宅から、しらこばと競技場に行くのに自転車でこの橋を渡っていくのが近道でした。

先日、散歩途中に初めて渡りました。越谷とは思えない橋から見える広々とした景観に感動したばかりなので残念でなりません。

パチンコ行くときに使ってました。

小さい時に自転車で渡りました。なごり惜しいですね。

大好きな橋です。昔を知らないですが、賑やかに渡ってる人がいた頃の光景を想像すると、なんか寂しいですね…

お疲れ様ですよね。近くなのでよく利用してました。昔の自動車は、そんなに大きくなかったからか、すれ違うことも可能でした。

新しいものができて便利になる反面、古くからのものがなくなっていくのは寂しいですね。タイムマシンで昔に戻って、江戸時代のころの様子を観てみたいですね。

1700年代(宝永年間)の工事は、大変だったでしょうね。川の氾濫が毎年あり、川を真っ直ぐにしたために、南荻島が分断されました。元荒川の改修と〆切橋の造成に携わった当時の方々にも感謝です。

〆切橋の名前からして、元荒川の流れをここで閉め切り、蛇行した流れをショートカットした、という歴史を物語るもの。なくなっても記念碑でも建てて、その歴史を後世に分かるよう配慮してもらいたいですね。

この橋は中高校生、反対側にある保育所、そしてJA(農協)があり生活必需の橋でもあります。小学生はここを通り徒歩遠足もしていました。いざなくなると不便で困りますね。自転車の前後に子供を乗せて保育所に通わせている若いママ、手押し車で散歩を楽しむ年配者はお辛いでしょう。なんでも代替えというのもなんだかなあと思いました。

現在、〆切橋を利用するのは徒歩や自転車の人たちです。向こう岸に行くのに、かなりの遠回り。草加バイパスを通らないいけないので自転車だと車の横を走ることになります。補修や新たな人道橋などの方法はなかったのでしょうか。

今後、〆切橋はどうなるの?

〆切橋|全面通行止め告知看板

今後、〆切橋はどうなるのか。越谷市道路建設課にメールで問い合わせたところ「〆切橋の今後については、地元地域の皆様のご意見等を伺いながら、その方向性及び対応を検討、調整していきたい」という主旨の回答をいただいた。
 
いずれにしても〆切橋は越谷にとっては貴重な史跡のひとつだ。個人的には、越谷市の有形文化財(建築物)に指定されてもおかしくないと思っている。〆切橋がなくなると生活が不便になって困るという声も多い。いい方向で話が進むことを願うばかりである。

ありがとう!〆切橋

〆切橋

江戸中期・宝永3年(1706)から令和3年(2021)4月30日までの間、315年にわたって、元荒川と荻島・大袋地区の歴史を見守り続けてきた〆切橋。地元の人々の暮らしを支えてくれただけではなく、元荒川の自然と溶け込んだ美しい姿は、日本の原風景を思わせるような景観だった。元荒川の流れのように時間もゆったりと流れていた。
 
ありがとう!〆切橋……。

謝辞

本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏から助言および校閲をしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。

【追記】〆切橋の今後の方針ついて|越谷市議会での質疑応答

2021年6月10日に行なわれた越谷市議会・令和3年6月定例会(本会議〔一般質問〕)において、のぐち高明(たかあき)議員(越谷刷新クラブ)が、〆切橋の現状と今後の方針について、質疑を行なった。
 
のぐち高明議員の質問と市長の答弁の概要は以下のとおり。(実際の質疑応答は「ですます調」で行なわれているが「である調」に変換してある)

〆切橋は市民からの存続の要望が数多くある。地元住民からは生活必需の橋であることから存続の声が多く寄せられている。県や国との調整を行なって、存続の方針になるよう願うばかりだが、〆切橋は越谷市にとっても歴史的背景のあるたいへん美しい橋である。〆切橋を文化財保護の観点から考えた場合、橋のたもとに〆切橋に関する歴史を記載した看板等の設置をお願いしたい。
〆切橋については、私にとっても地元でよく理解しているつもりだ。しかしながらだいぶ老朽化していて、やむを得ず通行止めにしたという経緯がある。地元のみなさんの声も聞いている。そうした中で、今後どのようにしていくかということについては、架け替えもある、また存続は難しいという選択肢もあり得る。
 
河川の拡幅、県道・大野島越谷線の拡幅、といったこともあるので、河川管理者や道路管理者など関係機関ともじゅうぶん協議しながら取り組んでいかなければならない。
 
そういった総合的な視点をもって、どういう形に誘導していくか。もちろん地元のみなさんは架け替えてほしいという希望だろうと推測できるが、それにはいろいろな課題が山積している。できるだけ早く意見を集約して、関係者の理解と協力を得られるよう取り組んでいきたいと思っているので、しばし時間をいただきたい。

のぐち高明議員の質問と市長の答弁の詳細については「越谷市議会・本会議録画配信」(令和3年6月定例会 本会議 一般質問)で動画(全40分23秒)がアップされているので、そちらをご覧いただきたい。〆切橋の現状に関する質問は 15分10秒 から、今後の方針についての質問と市長の答弁は 37分40秒 から始まっている。