越谷市の西に位置する小曽川(おそがわ)。北は元荒川、南はしらこばと水上公園。越谷岩槻線が東西を二分するように中央を横断している。畑地が広がるのどかな田園地域だ。小曽川久伊豆神社を起点に小曽川に点在している石仏や庚申塔などの史跡を巡った。

小曽川久伊豆神社

2022年5月22日。今回の小曽川地区の石仏調査は、小曽川の鎮守・久伊豆神社から始める。場所は、朝日バス「越谷西高校入口」バス停の目の前。越谷岩槻線(埼玉県道48号)沿いにある。

鳥居

鳥居

石鳥居をくぐると、年代不詳の手水鉢(ちょうずばち)、平成17年(2005)4月に氏子中により新設された御神燈、その先、正面が拝殿。境内の左手に、石塔や記念碑が並べられている。

三基の石塔

拝殿に向かって左手、新垣(あらがき)の前に、三基の石塔が置かれている。左は、年代不詳の「疱神」(ほうじん)と刻まれた文字塔、真ん中は、江戸末期・文久2年(1861)造塔の御岳山供養塔(※1)、右は、自然石に「金毘羅権現」と刻まれた年代不詳の文字塔。

※1 真ん中の石塔は、劣化がはげしく、刻まれている文字は読みとれない。銘文については、加藤幸一(2002)「荻島地区の石仏」越谷市立図書館蔵(p.38)と、越谷市史編さん室編(1969)『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(p.210)によった。

三基の記念碑と二基の石塔

三基の記念碑と二基の石塔

参道の左手には三基の記念碑と、二基の石塔が並べられている。
 
右から順番に、明治29年(1896)4月建立の自然石による日清戦没勲功碑、年代・主尊ともに不詳の石塔、明治21年(1888)造塔の大杉神社文字塔、昭和42年(1967)4月建立の神社改築記念碑、明治39年(1906)11月建立の日露戦争凱旋碑。

小曽川久伊豆神社については

別記事で詳しくお伝えしている。記事の URL は本記事の末尾で「関連記事」として載せている。参照願いたい。

続いて、神社と小道をはさんで隣接している墓地へ

慈眼寺跡墓地|小曽川公民館

慈眼寺跡墓地|小曽川公民館

ここは共同墓地と、集会所を兼ねた公民館になっている。かつては慈眼寺(じげんじ)と呼ばれる寺があったようだ。二箇所の石塔を紹介する。

墓地入口

二基の石塔

墓地入口にある二基の石塔。
 
左側は、地蔵菩薩立像が浮き彫りされた、江戸前期・寛文2年(1661)の百堂供養塔。村や近隣にある百箇所のお堂を巡拝した記念に建てられたもの。右側は「歓喜殿」と刻まれた珍しい隅丸型の石塔。二つに割れたまま置かれている。年代は不詳。

公民館脇

石塔群

公民館の脇には石仏が五基、並んでいる。
 
向かって左から、江戸中期・正徳4年(1714)の青面金剛庚申塔、江戸後期・寛政11年(1799)の青面金剛庚申塔、江戸後期・文政9年(1826)造立の如意輪観音塔、江戸後期・寛政11年(1799)の青面金剛庚申塔、江戸後期・天保2年(1831)の青面金剛庚申塔。

慈眼寺跡墓地については

別記事で詳しく考察している。記事の URL は本記事の末尾に「関連記事」として載せている。参照願いたい。今回は墓地内には立ち入らなかったが、別記事では墓地内の珍しい石塔なども紹介している。

移動|砂利道

砂利道

慈眼寺跡墓地をあとに先へ進む。
 
北東に延びている小道は、この先から、かなり狭い砂利道になる。砂利道の左はビニールハウス、右は畑。なつかい風景だ。昭和40年ごろ、小学生時代、畑の間のこんな砂利道を通って学校に通っていた。途中、肥溜め(こえだめ)があって、鼻をつまんで通った記憶がある。

移動|畦道

ビニールハウスを左に見ながら狭い砂利道を50メートルほど歩くと、左右に用水路が延びていて、その先は、さらに狭い畦道に変わった。左右に水田が広がっている。
 
昭和54年に越谷市史編さん室から発行された『越谷ふるさと散歩(上)』(※2)に、この場所からの風景描写が描かれている。以下引用。

(ここは)古い集落を中心とした小曽川の集落で、畑地が広がる間に農家が散在する。おおかたの農家は近代的な建築に改造され屋敷林もまばらであるが、なかには草葺き屋根の家もみられる。

※2 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「野島と小曽川の集落」165頁

水田

水田

『越谷ふるさと散歩(上)』が発行された昭和54年(1979)ごろとあまり変わらない水田風景が目の前に広がっている。田んぼには水が張られている。これから田植えが始まるようだ。稲穂が実るころにまた訪れてみたい。

砂利道

砂利道

畦道を抜け、ビニールハウスと屋敷林の間の砂利道を進むと、前方に舗装された道が見えてきた。