後半

続いて訪れたのは花田四丁目。個人宅の路傍にある文字塔を調査した。

淡島明神文字塔

淡島明神文字塔

トタン屋根の小さな祠の中に、「粟嶋大明神梅社」と刻まれた文字塔(※8)が置かれている。粟嶋大明神は淡島大明神のこと。江戸後期・寛政5年(1793)造立。石塔型式は隅丸型。

※8 越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると「この粟嶋明神の石塔は、かつては『下の病』(しものやまい)=婦人病に効く神様として周辺地域から盛んに参拝にきていたという。江戸時代に盛んであった 淡島信仰 の名残であろう」という。※淡島信仰については後述。(出典)加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「旧花田村の石仏」112頁

正面

淡島明神文字塔|正面

主銘は「粟嶋大明神梅社」

左側面

淡島明神文字塔|左側面

左側面には、寄進者の氏名(うじな)と「遠祖近祖」の銘。

右側面

淡島明神文字塔|右側面

右側面には、「寛政五癸丑」「正月初子」(※9)の銘と、当主の名前が刻まれている。

※9 初子(はつね)とは、月の最初の「子」(ね)の日のこと。「正月初子」は、正月の最初の「子」(ね)の日。

淡島信仰

淡島信仰とは、和歌山市加太町(かだちょう)にある淡島神社 (淡島明神) を祭神とする信仰のこと。婦人病に効験(こうけん)があるとされる。一般的には淡島様(あわしまさま)と呼ばれている。
 
越谷市研究会・顧問の加藤幸一氏は、「淡島信仰」について、次のように述べている。

淡島(粟島)明神は和歌山市加太(かだ)にある淡島神社(加太神社)の神様である。婦人病に霊験のある神として広く知られた。江戸時代、淡島明神のお札を入れた神棚の箱を背負って、その縁起や功徳を唱えながら門付けをして諸国を歩いていた淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる行者によって淡島信仰が広く伝えられた。地域によっては女性たちの「淡島講」もみられたという。

※10 加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「旧花田村の石仏」112頁

 
続いて、花田四丁目にあるスナッカラの地蔵と石仏の調査に向かった。

スナッカラの地蔵と石仏

スナッカラの地蔵と石仏

スナッカラの地蔵に到着。鞘堂(さやどう)の中に、お地蔵様(スナッカラの地蔵)と、石仏が 3基、並んでいる。

スナッカラの地蔵

スナッカラの地蔵

丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸前期・承応4年(1655)造立。裏面には「為源海三十三年菩提也」「承応四年乙未」「正月廿六日」の銘がある。
 
裏面の銘文について、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「この石仏に刻まれている銘文によると、源海という人物(僧侶であろう)の三十三回忌の菩提を弔うために、江戸時代の初め頃に造立したものである」(※11)と、述べている。

※11 加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「旧花田村の石仏」112頁

台石

台石

台石の正面には「為源海菩提也」(上の写真の黄色い○印)、左側面には「武州葛西領」「東葛西之庄」「上ノ割下小合村」「正徳寺」「施主敬白」(※12)とある。下小合村(しもこあいむら)は、現在の東京都葛飾郡東水元二丁目付近。

※12 台石の前には香炉(こうろ)が置かれていて、文字が読みとれない箇所もあった。台石の銘文については、加藤幸一「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)「旧花田村の石仏」112頁と照らし合わせた。

スナッカラとは

2022年11月9日。越谷市郷土研究会〈地誌研究倶楽部〉巡検兼越谷リバーウォークガイドツアーで、スナッカラの地蔵を見学したとき、案内役の秦野秀明氏(越谷市郷土研究会・副会長)から「スナッカラ」の語源について、次のような説明があった。

案内役・秦野氏

「スナッカラ」は「すなかわら」(砂河原)が訛(なま)ったものと思われます。かつてこのお地蔵様があったあたりは、地元では「スナッカラ」と呼ばれた耕地でした。スナッカラ(すなかわら=砂河原)の地にあったから「スナッカラの地蔵」と呼ばれるようになりました。

花田の地蔵伝説

花田のお地蔵さま

また、秦野氏は、「『スナッカラの地蔵』(花田のお地蔵さま)には、舟運での移動中に舟が動かなくなった結果、砂河原のあった当地で安置されたという伝説があります」という話も聞かせてくれた。

花田の地蔵伝説については越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏が「花田のお地蔵さま(スナッカラ地蔵)」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/327.pdf

石仏

青面金剛像庚申塔|安永3年

青面金剛像庚申塔|安永3年

江戸中期・安永3年(1774)造立の庚申塔。石塔型式は駒型。正面中央に主尊の青面金剛像が浮き彫りされている。最頂部に「日月」。青面金剛の左右の足元に「二鶏」。青面金剛に踏まれているのは「邪鬼」。最下部に「三猿」
 
右側面は「安永三甲午十二月吉□」、右側面には「□□講中十八」とある。

青面金剛像庚申塔|正徳5年

青面金剛像庚申塔|正徳5年

青面金剛を主尊とした庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・正徳5年(1715)造立。正面に浮き彫りされているのは「日月」「青面金剛」「一鶏」「邪鬼」「三猿」
 
正面の脇銘は「奉剋彫青面金剛聖容庚申講人数二世安楽攸」「正徳五乙未年二月十一日」「施主十三人」。裏面に、青面金剛を表わす梵字「ウーン」が刻まれている。

馬頭観音文字塔

馬頭観音文字塔

江戸後期・文化3年(1806)造立の馬頭観音文字塔。石塔型式は駒型。主銘は「馬頭観世音菩薩」。脇銘は「文化三丙寅天」「春正月吉日」。石塔の下部に「講中」とあり、その下に、11人の名前が確認できる。

石仏調査終了

今回の文化財パトロールはこれで終了。予定していた 3箇所・19基の石仏・石塔は、すべて確認できた。

調査風景

文化財パトロール|花田地区…2023年4月13日

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげます。

参考文献

調査にあたって、石仏や石塔の劣化や風化によって碑文が読みにくかったり、判読できない箇所も多々あった。正確を期するために、関係書籍や調査報告書と照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。

参考文献

加藤幸一「増林地区の石仏」平成11・12年度調査/令和4年改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)

追記

今年度(2023年度)の文化財パトロールの様子が、2023年5月16日付の「東部よみうり」に掲載されました。