虚空蔵堂の石塔
土手道を50メートルほど歩くと、土手下に、虚空蔵堂(こくうぞうどう)と呼ばれる小さな社(やしろ)と三基の石塔、記念碑が並んでいる。奥は蒲生愛宕町(がもうあたごちょう)第二会館。もともとは、かつての岩槻道沿いにあったものだが、綾瀬川の河川敷が整備されたさいに、この場所に移転した。
観音像付き道標石塔
真ん中の石塔は、蓮のつぼみを持った観音像を載いた道標(どうひょう)石塔。「蓮の花を持っていれば観音様です」(加藤氏談)。石塔の正面には「これよりぢおんじミち 四里」と刻まれている。
「じおんじみち」(慈恩寺道)とは、岩槻にある慈恩寺に通じる道で、岩槻道のこと。慈恩寺は天台宗の古刹で、今もあります。「かんのんさま」とも呼ばれています。江戸時代は、岩槻道は、主に「慈恩寺道」と呼ばれていました。
塞神塔
左端は自然石の塞神塔(さえのかみとう)。悪霊の侵入を防ぐ神様。正面に「塞神」と刻まれている。
庚申塔
三基並んでいる右端の石塔は青面金剛像庚申塔。江戸中期・正徳元年(1711)造立。加藤氏が解説してくれた。
太陽と月(日月)、青面金剛(しょうめんこんごう)、二羽の鶏(二鶏)、三匹の猿(三猿)が描かれていますから、庚申塔ですね。この青面金剛は手が六本あって、真ん中の手で合掌しています。
移動|土手道
虚空蔵堂の石塔を見学したあと、綾瀬川を右手に見ながら土手道を進む。土手の左下(フェンスの下)は出羽堀跡、土手の右下は岩槻道。前方右手には蒲生大橋が見える。
日光街道と岩槻道の追分
土手道を進むと旧日光街道にぶつかった。ここは日光街道と岩槻道が合流している追分(おいわけ)だった。
加藤氏の解説
先ほど見学した『成田山道標石塔』は、この追分に建てられていたと思われます。
追分
かつてここを起点に、綾瀬川左岸を流れていた出羽堀と並行して、岩槻方面に通じる岩槻道(いわつきみち)があった。今の岩槻道は、綾瀬川の河川敷工事のさいに、綾瀬川緑道と名付けられて新しく造られたもの。
上の写真で、案内役の加藤氏が立っている場所(黄色い○印)が追分。右手が旧日光街道。追分から先の街道沿いに茶屋が並んでいたことから、この街道沿いは茶屋通りと呼ばれた。現在も横断歩道から先は蒲生茶屋通りと呼ばれている。
蒲生橋|旧・出羽橋
フェンスの脇に「かもうばし」(蒲生橋)と刻まれた親柱がある。昔は出羽橋と呼ばれた。出羽橋(現・蒲生橋)は、日光街道と岩槻道の追分でもあった。上の写真の中央上部に出羽堀跡が見える(黄色い○印)。かつては出羽橋の下を流れていた。
旧・出羽堀の流路
かつての出羽堀は、出羽橋(現・蒲生橋)の下をくぐって、日光街道沿いを南南東に流下し、綾瀬川に落とされた。
1枚目の写真は出羽堀跡を指し示す案内役の加藤氏。2枚目は、出羽橋をくぐって日光街道沿いを流下していった出羽堀の流路を示す加藤氏。3枚目は、蒲生愛宕川(かつての出羽堀)。蒲生愛宕川はここから南南東に流下して綾瀬川に落とされている。
加藤氏の解説
現在の出羽堀は、先ほど見学した西浦橋の下を通って(新出羽堀として)、綾瀬川に注がれています。
移動|蒲生の一里塚へ
追分から途中、休憩をへて、蒲生の一里塚へと向かった。前方に綾瀬川に架かる蒲生大橋が見えてきた。左手の杜(もり)が蒲生の一里塚。
蒲生の一里塚
蒲生の一里塚に到着。一里塚とは、江戸時代、街道沿いに一里(約4キロメートル)ごとに設置された塚のこと。エノキやマツなどを植えて、距離を示す目印や旅人の休息の場とされた。蒲生の一里塚は埼玉県内の日光街道筋に現存する唯一の一里塚で、埼玉県の史跡にも指定されている。
一里塚の上には現在、愛宕神社(あたごじんじゃ)が祀られているが、江戸後期、幕府が編さんした絵地図「日光道中分限延絵図」によると、愛宕社は一里塚にはなく、一里塚の隣に地蔵堂と並んで建っていたようである。
一里塚は二箇所あった
上の写真、エノキが立っている場所が、元の一里塚の高さ。
江戸時代は、この場所に、日光街道を挟んで二基の一里塚がありました。地元では「一里山」(いちりやま)と呼ばれていました。
案内役の加藤氏が、「一里塚は街道を挟んで上り道と下り道に対(つい)で設けられていた」と、話をしてくれた。道路の拡張などで、今では、ほとんどの一里塚が姿を消してしまった。蒲生の一里塚は、奇跡的に一基だけ残って保存されている貴重な史跡といえる。
一里橋跡
かつては一里塚の前を出羽堀が流れていた。現在、愛宕神社の鳥居がある前に「一里橋」(いちりばし)と呼ばれる橋が架かっていたと、案内役の加藤氏が話をしてくれた。そのあと加藤氏は、実際に一里橋が架かっていた場所を渡る仕草をして、位置を示してくれた。
石塔群
一里塚の横にある階段を降りるとフェンス沿いに石仏が並んでいる。向かって右端から「成田山」道標石塔・十三仏供養塔・不動明王像・六地蔵。どの石塔も建立されたのは江戸時代。
「成田山」道標石塔は、もともとは茶屋通りと岩槻道の合流点にある出羽橋(現・蒲生橋)のそばにありました。
続いて出羽堀(現・蒲生愛宕川)の終点へ移動。