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十字路|かけい堀

清浄院をあとに道を左へ。50メートルほど歩くと、かけい堀の十字路に出る。左手前方に、先ほど見学した二基の庚申塔が見える。十字路を右へ

かけい堀

かけい堀

かけい堀を右手に見て小道を直進。前方にキャンベルタウン野鳥の森のバーとケージが見える。左手前方に見える橋が定使野橋(上の写真の黄色い▼印)

越谷野田線

越谷野田線

越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号越谷野田線)にぶつかる。左へ

定使野橋へ

越谷野田線|定使野橋手前

前方に定使野橋(じょうつかいのはし)が見える。橋までは約60メートル。向かって左側が清涼院跡地である。

定使野橋からキャンベルタウン野鳥の森へ

定使野橋

定使野橋を横断。定使野橋の入口(※5)から新方川(にいがたがわ)上流を望む。左前方に見える橋は白鷺橋。正面右手に見える施設は伏せ越し。そのうしろがキャンベルタウン野鳥の森。

※5 一般的には、橋の親柱にある橋名板(きょうめいばん)が漢字表記だと橋の入口で、ひらがなだと出口。「新方川」と漢字表記になっているので、定使野橋は新方川の左岸側が入口で、右岸側が出口ということになる。

定使野橋から新方川左岸沿いの小道に入る。

伏せ越し

逆川と新方川の伏せ越し

右手の施設は、逆川を新方川の下をくぐらせるための伏せ越し(ふせこし)。簡単にいうと川の立体交差点。逆川はここで新方川の下をくぐって西南に流下していく。昔は逆川が新方川の上を流れていた。千間堀(新方川)は古くは細流であった。その後、新方領堀、そして現在は新方川と名前が変遷してきて、逆川よりも川幅がだいぶ広がり、水量も激増し、伏越が逆になった。

丁字路を右へ

丁字路

伏せ越し先の丁字路を右へ。前方右手はキャンベルタウン野鳥の森。

遊歩道|逆川

遊歩道|逆川

遊歩道を進む。右手は逆川と桜並木。

キャンベルタウン野鳥の森

遊歩道|逆川

80メートルほど歩くとキャンベルタウン野鳥の森に着く。住所は越谷市大吉272-1。今回は石仏めぐりが目的なので入園はしなかったが、2019年4月4日に園内で撮影した珍しい三羽の鳥を紹介する。

オーストラリアイシチドリ

オーストラリアイシチドリ

ブロンズトキ

ブロンズトキ

オーストラリアガマグチヨタカ

オーストラリアガマグチヨタカ

新大吉橋へ

逆川沿いの遊歩道

キャンベルタウン野鳥の森を通過。逆川沿いの遊歩道をそのまま進む。

大吉公園

大吉公園

40メートルほど歩くと左手に大吉公園(おおよしこうえん)が見えてきた。つり橋やトンネルを模した大きな遊具もあるので家族連れには人気の公園。春は桜、秋は黄葉が楽しめるスポットでもある。

浦和野田線

浦和野田線

大吉公園を左に見ながら進むと浦和野田線にぶつかる。右へ行く。

新大吉橋|交差点

新大吉橋|交差点

交差点に出る。交差点の手前、逆川に架かっている橋が新大吉橋(上の写真の黄色い▼印)。平成30年(2018)8月に竣功された。浦和野田線は新大吉橋のところで越谷野田線と交差する。

新大吉橋から逆川の下流を望む

新大吉橋から逆川の下流を望む

新大吉橋から逆川の下流を望む。左岸沿いを走っているのは越谷野田線。下流方面に300メートルほど行くと定使野橋に出る。

前波水神宮へ

新大吉橋から逆川の上流を望む

横断歩道を渡って、新大吉橋から逆川の上流を望む。逆川の右岸は釣りのスポット。天気がいい日は釣り人たちが陣取る。右手に越谷野田線が見える。
 
前方右手に見える社は次の見学先、前波水神宮(上の写真の黄色い▼印)

丁字路|新方橋(南)

丁字路・新方橋(南)

新大吉橋から越谷野田線を北に50メートルほど歩くと丁字路・新方橋(南)に出る。前波水神宮(ぜんなみすいじんぐう)は信号の左手。越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号)を直進すると野田・松伏方面へ。T字路を右に曲って平方東京線(埼玉県道102号)を進むと吉川方面に出る。

前波水神宮

前波水神宮

前波水神宮は増林前波(ましばやしぜんなみ)の鎮守。かつてこのあたりは増林前波集落と呼ばれた。「前波」は「前並」とも表記される。境内は整地されて広場のような感じになっている。
 
境内の左手に石塔が三基。右手には前波自治会館がある。石畳の参道の中央には昭和54年10月に建立された石鳥居。神額には「水神宮」と刻まれている。石鳥居の先に瓦葺き格子戸造りの社が鎮座している。社に向かって右手には、自然石の石塔と石の祠堂が二宇、並んでいる。

三基の石塔

三基の石塔

境内の左手に並んでいる三基の石塔は、向かって左から道標付き普門品供養塔、敷石供養塔、道標付き成田山供養塔。

道標付き普門品供養塔

道標付き普門品供養塔

道標付き普門品供養塔。石塔型式は兜巾型。江戸後期・文化12年(1815)造立。正面の主銘は「普門品供養」、脇銘は「文化十二乙亥」「二月吉祥日」「全波組 講中」。「全波組」は「前波組」のこと。左側面と右側面は道しるべになっている。

ひがし こやすくわんをんミち

道しるべ|東、子安観音道

左側面には「ひがし こやすくわんをんミち」(東、子安観音道)と刻まれている(※6)

※6 神社前の丁字路・道路標識「新方橋(南)」を東へ向かう道は平方東京線。800メートルほど先に、林泉寺という浄土宗の寺院があり、今でも観音堂には子安観音が安置されている。この道しるべから、前波水神宮前の新方橋(南)から林泉寺の観音堂に向かう平方東京線は、江戸時代、子安観音道(こやすかんのんみち)と呼ばれていたことが分かる。

ミなみ こしがや江戸みち きた のださしまみち

道しるべ|南、越ヶ谷江戸道・北、野田猿島道

右側面には「ミなみ こしがや江戸みち」(南、越ヶ谷江戸道)「きた のださしまみち」(北、野田猿島道)とある(※7)

※7 前波水神宮の前を南北に通る越谷野田線は、江戸時代は野田街道や猿島(さしま)街道と呼ばれた。この道しるべは、本来は水神社そばの丁字路の角(「ヘアーサロンナカノ」)の地点にあって、南向きに設置されていたと思われる。

敷石供養塔

敷石供養塔。江戸後期・嘉永6年(1853)造立。石塔の型式は兜巾型。正面の主銘は「敷石□(※8)□」。脇銘は「嘉永六癸丑年」「二月吉日」「川岸船持中」「発願人」ほか、四人の名前が確認できる。左側面には「セハ人」ほか三人の名前が刻まれている。

※8 「敷石」の下の漢字は「竒」にも見えるが「寄」の異字体かもしれない。「寄」だとすると「敷石寄□」となるので、主銘には「敷石寄進」と刻まれていると解釈できる。

前波組氏子中

脇銘|前波組氏子中

右側面には「前波組氏子中」「粕カベ新町石工寅□」とある。
 
正面の「川岸船持中」と右側面の「前波組氏子中」の銘から、地元の船主たちと前波組の氏子中とが共同で、神社に敷石を寄進したことを記念して、粕壁(現・春日部)新町の石工に造らせた供養塔であることが分かる。

成田山道標石塔

成田山道標石塔

道しるべを兼ねた「成田山」文字塔。江戸末期・慶応3年(1867)造立。石塔型式は角型。正面の主銘は「成田山」。脇銘は「増林□張 是与二丁」。右側面には「慶応三□□年」とみえる。

道しるべ

道しるべ

左側面は道しるべになっている。「左のだ二里」「右こ□□や二十丁」と刻まれている。二十丁は約2.2キロメートル。前波水神宮から越ヶ谷宿までは約2キロなので「右こ□□や二十丁」は「右こしがや二十丁」と思われる。

三基の石塔◇道標付き普門品供養塔◇敷石供養塔◇成田山道標石塔―は風化と劣化が進んでいて銘文は読み取りにくいものか多い。主銘や脇銘については、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告『増林地区の石仏』平成16・17年度調査/平成31年7月改定「増林前波の水神宮」(p4,p51)と照らし合わせた。

自然石の石塔と石祠

自然石の石塔と石祠

社に向かって右手には、自然石の石塔・普門品(ふもんぼん)供養塔と、二宇の石祠がある。

普門品供養塔

普門品供養塔

自然石の普門品供養塔。江戸後期・嘉永元年(1848)造立。正面に「普門品供養」と刻まれ、脇銘に「鑑章斉于時謹書㊞」とある。台石には「戸張佐治右ヱ門」「平野源八」ほか、九人の名前が確認できる。

裏面

裏面

裏面には「嘉永元戊申年六月建焉」「増林邑前波組講中」とある。

石の祠堂

弘法大師像の祠堂

神殿の隣りに建てられている石の祠堂には、弘法大師座像の石像が納められている。

弘法大師座像

弘法大師座像

さらに石像の脇には扇形の木の掛軸も置かれている。祠堂の外に掲げられていたものであろう。そこには弘法大師千百年遠忌に際し「御遠忌 第十一番水神宮 御詠歌 くもはれて またくもかゝる すいじんの みづにすむのも のちの よのため 昭和九年 七月廿一日」との歌が墨で記されている。(※9)

※9 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「香取神社と逆川堤切割騒動」(P74)参照

御岳山神社

境内社|御岳山神社

向かって右端の石祠は御岳山神社(みたけさんじんじゃ)。祠の中には「大口真神御札」と書かれたお札が安置されている。「大口真神」(おおくちのまがみ)は、御岳山の守り神で「おいぬ様」とも呼ばれる。

力石

力石

そのほか社殿前の左右二箇所に力石が置かれている。文字が刻まれているようたが風化が進んでいるのでまったく読みとれない。
 
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日)「香取神社と逆川堤切割騒動」(p74)に、この力石の銘について「『奉納大神宮』『前並若者』などと刻まれた[……]」という記述があることから、この二つは増林前波(前並)の若者が神社に奉納した力石のようである。