恩間新田の石仏

恩間新田公民館|能満寺跡

石塔群|恩間新田公民館

恩間新田公民館着。住所は、越谷市恩間新田314。公民館横の路傍に、石塔と小祠が並んでいる。
 
この場所は、かつて能満寺と呼ばれた寺の跡地。
 
『埼玉の神社』に、「能満寺は、阿弥陀如来を本尊とする真言宗の寺院であったが、(明治初頭の)神仏分離によって廃寺になり、その跡地である社有地に恩間新田公民館が建設されている」(※8)と、記されている。
 
また、神仏分離以前(江戸時代)は、先ほど調査した恩間新田稲荷神社は、能満寺が管理していた。

※ 8 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「恩間新田稲荷神社」1114頁

恩間新田公民館では、道路(中堀通り)に面して並んでいる八基の石塔と富士塚を調べた。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

向かって右端は、江戸中期・享保8年(1723)造塔の青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。
 
正面には「日月」「青面金剛像」「邪鬼」「二鶏」「三猿」が陽刻されている。青面金剛は一面六臂(いちめんろっぴ)の剣人型。最頂部に青面金剛を表わす梵字(種子=しゅじ)「ウーン」が刻まれている。
 
青面金剛の持物は、左手にショケラ(人身)、左上手に法輪、左下手に弓。右手に宝剣、右上手に鉾(ほこ)、右下手に矢。

左側面

脇銘

左側面の脇銘は「奉造立青面金剛供養」

右側面

脇銘

右側面には「享保八癸卯年三月日」「恩間村新田」「施主村中」とある。

文字庚申塔

文字庚申塔

右から二番目は文字庚申塔。江戸後期・嘉永3年(1850)造立。石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「庚申塔」。最頂部に、瑞雲に乗った日月が陽刻されている。

左側面

脇銘

左側面の脇銘は「天下泰平五穀成就」「嘉永三年庚戌十一月吉日」

右側面

脇銘

右側面には「武州埼玉郡岩槻領」「恩間新田」とある。この碑銘から、江戸時代、恩間新田(恩間村)は、越ヶ谷領ではなく、岩槻領だったことがわかる。

台石

台石

台石の正面に三猿が浮き彫りされている。左側面と右側面には、世話人と寄進者たちの名前が、20人近く刻まれている。

地蔵菩薩立像

地蔵菩薩立像

右から三番目は、平成10年(1997)建立の地蔵菩薩立像。掘り方は丸彫り。左手に宝珠(ほうじゅ=たま)、右手に錫杖(しゃくじょう=つえ)を持っている。台石の裏面に「恩間新田納税組合」「平成十年七月吉日建之」とある。

青面金剛像庚申塔|再建

青面金剛像庚申塔|平成10年

地蔵菩薩立像の右隣は、青面金剛像庚申塔。
 
江戸中期・元禄10年(1697)の青面金剛像庚申塔が、ふたつに割れて破損してしまったので、平成10年(1997)7月に、恩間新田納税組合によって、再建されたもの。
 
石塔型式は舟型。瑞雲に乗った日月、一面六臂の青面金剛像、邪鬼、三猿が陽刻されている。邪鬼はオオカミのような姿になっている。
 
青面金剛の顔は、観音菩薩に近い。持物は、左手に羂索、左上手に宝剣、左下手に弓、右手に宝鈴のようなもの、右上手に鉤(かぎ)、右下手に矢。
 
彫像だけで、銘は刻まれていない。

参考|元の庚申塔

スケッチ|青面金剛像庚申塔

※出典:「大袋地区石仏」(※9)

ふたつに割れた青面金剛像庚申塔を平成9年(1996)に調査した、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏のスケッチが、「大袋地区石仏」(※9)に、載っているので、転載した(上の画像)

※9 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)29頁

 
加藤幸一氏の調査によると、この庚申塔に刻まれていた銘は、「『奉造立庚申待所願成就処』『元禄十丁丑十一月吉祥日』『能満寺』のほか、18人の名前」(※10)
 
この庚申塔は、能満寺の庚申講中18人によって、建立されたことがわかる。

※10 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)83頁

小祠

小祠

右から五番目。青いトタン屋根の小祠(しょうし)には、不動三尊像が安置されている。

不動三尊像

不動三尊像

不動三尊像の上部は、不動明王座像。下部は、脇侍(わきじ)の二童子。
 
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この不動三尊の造立は、明治4年(1871)で、台石に「明治四辛未年」「十月大吉祥日」「天下泰平」「五穀豊穣」の銘が刻まれている(※11)という。

※11 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)83頁

丑頭虚空蔵菩薩文字塔

丑頭虚空蔵菩薩文字塔

こちら(上の写真)は、小祠の隣、左から三番目の石塔。大正13年(1923)造塔。石塔型式は駒型。
 
正面の主銘は「丑頭虚空蔵菩薩」(ごず・こくうぞうぼさつ)。脇銘は「大正十三年」「八月十五日」。右側面には建立者の名前が刻まれている。
 
この石塔は、丑年の守り本尊でもある虚空蔵菩薩を主尊にした、牛の供養塔(※12)かもしれない。

※12 牛の供養塔には「牛頭観音」(ぎゅうとうかんのん)のほか「牛頭金剛手菩薩」(ぎゅうとうこんごうしゅぼさつ)「牛頭大王」(ごずだいおう)などがある。

道標付き普門品供養塔

普門品供養塔

左から二番目の石塔は、道しるべ付き普門品(ふもんぼん)供養塔(※13)。江戸後期・天明3年(1783)造立。石塔型式は山状角柱型。

※13 普門品(ふもんぼん)とは、法華経の第八巻第二五品「観世音菩薩普門品」の別称。観音経とも呼ばれる。観音経(普門品)を一定回数読誦(どくじゅ)した記念に建てたのが普門品供養塔。

正面の主銘は「奉読誦普門品供養一万」。脇銘は「天明三癸卯」「九月吉祥日」

左側面

道しるべ

左側面は「志おんじミち」と刻まれている。「じおんじみち」(慈恩寺道)とは、慈恩寺に至る道の意。「じおんじ」(慈恩寺)は、さいたま市岩槻区慈恩寺のこと。今もある。

右側面

道しるべ

右側面には「の志満ミち」(のじまみち)とある。「のじまみち」(野島道)は、「野島」(岩槻領野島村=現・越谷市野島)に至る道の意。
 
この石塔は、もともとは別の場所(すぐ近く)にあったが、恩間新田から北西に(約6キロ)進むと慈恩寺、南西に(約1.5キロ)進むと野島に至る。

無縫塔

無縫塔

向かって左端は、無縫塔(むほうとう)。僧侶の墓塔。能満寺の僧侶の墓塔と思われる。

富士塚

富士塚

石塔群の裏手に富士塚がある。この富士塚は、地元では、浅間様(あさまさま)と呼ばれ、敬(うやま)われてきた。
 
現在、道路(中堀通り)に面して並べられている石塔(平成に建立された二基はのぞく)は、平成9年(1997)ごろまでは、富士塚にあった。

恩間新田浅間山

恩間新田浅間山

出典:越谷市デジタルアーカイブ(※14)

昭和50年(1975)ごろに撮影された、富士塚の写真(白黒)が、越谷市デジタルアーカイブに公開されているので転載した(上の写真)。富士塚の麓に石塔が並んでいる。

※14 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 恩間新田浅間山

「浅間神」文字塔

「浅間神」文字塔

富士塚の頂上には「浅間神」と刻まれた自然石の石塔が置かれている。明治24年(1891)造塔。裏面には「明治廿四年卯五月」「岡崎恒敬書」とある。
 
台石は、半分以上、埋まってしまっているで、銘は確認できない。
 
平成9年(1997)に、この石塔を調査した越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、「台石の正面には、富士山の絵と○の中に岩の字が入ったマークと『扶桑教会』の文字が見られる」(※15)という。

※15 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)83頁

 
恩間新田公民館(能満寺跡)の調査を終え、次の調査地へ向かった。

次の調査地へ

恩間新田薬師堂

次の調査地は、恩間新田薬師堂。恩間新田公民館から中堀通りを左(北西)に進んで、100メートル先のY字路を左折。30メートルほど歩くと、前方右手に、薬師堂のお堂が見える。