恩間新田の石仏

道標石塔

道標石塔

道標石塔の前に到着。
 
石塔型式は角柱型。江戸末期・文久元年(1861)造塔。主銘は「是より第六天道」「十八丁」。脇銘は「文久元酉年八月吉日」。正面の最頂部に天狗の顔が線彫りされている。

側面

側面

左側面と右側面には、世話人3人、寄進者23人の名前が刻まれている。

第六天道

第六天道

道しるべのある場所は、恩間新田と大戸村の村境にあたる。
 
主銘にある「第六天道」(だいろくてんみち)とは、大戸村(現在のさいたま市岩槻区大戸)にある第六天神社に至る道のこと。
 
道しるべの「是より第六天道」「十八丁」は、「ここから第六天神社まで18丁(約2キロメートル)」の意。
 
今も道しるべ脇の道を南西に1.5キロメートルほど直進すると、第六天神社に着く。
 
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、「明治の頃までは現在のような直線道路ではなく、蛇行していた」(※20)と述べていることから、当時は、道しるべの場所から第六天神社までの距離は、約2キロメートル(18丁)だったのだろう。

※17 加藤幸一「大袋地区の石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)90頁

また、加藤氏は、次のように述べている。

加藤氏

江戸時代、千間堀(現・新方川)は、今の場所から160メートルほど西を流れていました。ちょうどこのあたりに、恩間新田稲荷神社に合祀された香取神社がありました。この道標石塔は、岩槻領の人々によって建てられたものと思われます。

馬頭観音塔

田園風景

道標石塔の北西は田園地帯が広がっている。田んぼの一画(道標石塔の西北西100メートルあたり)に、土が盛られた小高い場所がある。
 
そこに、馬頭観音塔が三基ある。江戸時代、その場所は「馬捨て場」だった。
 
今回は、田植えが始まっていたので、馬頭観音塔の調査は見送った。農閑期に再び訪れて調査を行ないたい。
 
今回の石仏調査は、ここで終了。

後記

眷属

私が在籍しているNPO法人・越谷市郷土研究会では、2005年から毎年、越谷市内の石仏や石塔の現状調査(文化財パトロール)を実施している。今年度(2024年度)は大袋地区北部(恩間村・恩間新田・袋山村・大林村・大房村)
 
今年度の文化財パトロールは参加できなかったので、資料をもとに、今回、個人的に、恩間新田の現地調査をおこなった。

参考文献
参考文献

加藤幸一(2015)「平成9.10年度<大袋地区の石仏>平成27年12月改訂」越谷市立図書館所蔵.
雄山閣(1996)『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』.
埼玉県神社庁神社調査団編(1998)『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁.
日本石仏協会編(1986)『日本石仏図典』国書刊行会.
庚申懇話会編(1995)『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣.
日本石仏協会(2011)「新版・石仏探訪必携ハンドブック」青砥書房.
日本石仏協会(2000)「石仏巡り入門―見方・愉しみ方」大法輪閣.