大道香取神社
続いて境内の風景を紹介する。
参道入口の両脇には氏子中(うじこじゅう)奉献による幟立て(のぼりたて)が一対立っている。
鳥居
幟立てを過ぎ、石畳を歩くこと20メートル。朱塗りの鳥居がある。鳥居の形は両部鳥居(りょうぶとりい)。額束(がくづか)には「香取神社」と掲げられている。
忠魂碑
鳥居をくぐる手前、右にある石碑は、昭和33年(1958)12月建碑の「忠魂碑」(大道遺族会建立)。裏面には、日支事変(にっしじへん)=日中戦争と、大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した、大道出身の戦没者名が刻まれている。
旧富士塚
鳥居の左手、コンクリート塀と生け垣に囲まれた一画に、石碑や力石などが置かれている。境内にある大道自治会館の南側にあたるこの場所は、かつては、盛土された小山になっていて、富士塚(ふじづか)だった。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「香取神社境内にある大道集会所の南側の小山あたりにかけて、富士浅間信仰の大きな富士塚があった。小山はかつての富士塚の名残といえる」(※4)という。
富士山を信仰する富士講の信者たちが、富士山に模して築いた塚。村の鎮守社など身近な場所に富士山を祀ることで、いつでも参拝できるようにと、江戸時代、関東地方一円に数多く作られた。
※4 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)「大道香取神社」68頁
社殿再建記念碑
手前の右手にある石碑は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊した社殿の再建を記念して建てられた記念碑。大正14年(1925)10月建立。
最頂部に横書きで「至誠神感」(しせいしんかん)と刻まれている。「至誠神感」とは、幕末の思想家・吉田松陰の言葉「至誠神を感ず」で、「まごころは神様さえも感動させる」の意。
出雲大社参拝記念碑
手前の左手(フェンス沿い)にある石碑は、昭和33年(1958)2月建碑の出雲大社参拝記念碑。主銘は「出雲大社参拝記念碑」。脇銘は「太々御神楽奉奏」(だいだいおかぐらほうそう)。裏面に「山陰及北陸地方の旅」と題し、発起人と寄進者15人の名前が刻まれている。
力石(?)
コンクリート塀沿いに力石(ちからいし)(※5)と思われる石が 7個、並べられている。銘が刻まれているような石もあるが、風化によって、文字は読みとれない。
力石とは断定できないので、力石のような石、としておく。
※5 若者が力試しや力くらべをするために使われた石。石を持ちあげる力くらべは、村の娯楽としても親しまれ、江戸時代から昭和初期にかけて神社の境内などで、さかんに行なわれた。
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大道香取神社のある大道(旧大道村)の北隣、三野宮(旧三野宮)には、江戸時代、日本一の力持ちとうたわれた三ノ宮卯之助(さんのみやうのすけ)がいた。
三ノ宮卯之助については、別記事で紹介している。
越谷市三野宮の鎮守・三野宮香取神社。境内には、江戸時代後期、力持ちを見世物として日本各地を興行して歩いた三ノ宮卯之助の名が刻まれた力石をはじめ馬頭観音像供養塔や「妙見星神筑波山両大権現」と刻まれた笠付の文字塔など石仏も多く見られる。
稲荷社
生け垣側にある朽ちかけたトタン葺きの木祠(もくし)は、稲荷社。脇には力石のような石が一個、置かれている。
キツネ(?)
木の祠の中には、稲荷大神の神使(しんし)であるキツネの(ような姿をした小さな)石像が一体、置かれている。
三基の石碑
生け垣に沿って自然石の石碑が三基、並んでいる。手前から、①小御嶽大神碑②御嶽神社碑③浅間神社碑……。
小御嶽大神碑
手前は、自然石に「小御嶽大神」(こみたけおおがみ)と刻まれた碑。年代不詳。小御嶽大神は、富士山五合目に鎮座している小御嶽社の祭神であるイワナガヒメ(磐長姫)のこと。富士登山者の守護神として敬われてきた。
御嶽神社碑
中央の自然石には「御嶽神社」(みたけじんじゃ)と刻まれている。年代不詳。脇銘に「栗原永喜拝書」とある。
浅間神社碑
いちばん奥は、自然石に草書体で「浅間神社」(せんげんじんじゃ)と刻まれている。明治25年(1892)建立。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この浅間神社碑は、かつて富士塚の頂上にあったという。(※6)
※6 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)「大道香取神社」68頁
浅間神社は、富士山を信仰対象とした神社で、コノハナノサクヤヒメ(木花開耶姫)を祀る。富士山を模して造られた富士塚の頂上には、浅間神社碑が建てられていることが多い。
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越谷市内には富士塚が残っている神社も何社かあり、西新井の石神井神社(いしがみいじんじゃ)もその一社。石神井神社の富士塚については別記事にしてある。
県民健康福祉村の北400メートル、西新井通り(市道2262号線)沿いに鎮座している石神井神社(いしがみいじんじゃ)。境内には、浅間大神(あさまのおおかみ)と磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀る富士塚があり、神池の横手には、青面金剛庚申塔など五基の石仏が置かれている。
台石|丸参講紋
台石の正面には、丸参講(まるさんこう)の富士講紋が刻まれている。富士講は、富士山を信仰する人々で組織された団体で、浅間講(せんげんこう)とも呼ばれる。江戸時代後半に流行した。富士講にはさまざまな講社があり、丸参講もそのひとつ。
そのほか台石には、富士登拝(とうはい)の案内役をつとめた先達(せんだつ)脇先達(わきせんだつ)の名前のほか、世話人と講員の名前が刻まれている。
山岡鉄舟書
主銘(浅間神社)の脇に草書体で「正四位山岡鐵太郎拝書」と刻まれている。山岡鐵太郎(やまおかてつたろう)は、幕末から明治にかけて活躍した偉人。別称は山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)。剣術と書道に秀でていた。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この石碑に刻まれた「浅間神社」の銘は、「山岡鉄舟による書である」(※7)という。
※7 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)「大道香取神社」68頁