越谷市三野宮にある浄土真宗・法光寺(ほうこうじ)。江戸時代の浮世絵師・写楽とゆかりのある寺としても知られている。2022年3月15日、蜂須賀桜と呼ばれる早咲きの桜が見ごろを迎えた法光寺を訪ねた。

法光寺の蜂須賀桜

法光寺の蜂須賀桜

法光寺は、写楽の正体とされる徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛の菩提寺であるとされることから、写楽と徳島県にゆかりのある二団体によって、2018年(平成30年)12月に蜂須賀桜(はちすかざくら)が寄贈・植樹された。

蜂須賀桜とは

江戸時代に徳島藩を治めていた蜂須賀家が大切にしていたとされる早咲きの桜。寒桜(かんざくら)の一種。二月中旬から三月中旬にかけて、淡い紅色の花を咲かせる。

蜂須賀桜を寄贈したのは徳島県内にあるNPO法人「写楽の会」と「蜂須賀桜と武家屋敷の会」。木はまだ若い。高さは約3メートル。植樹されたときは樹齢5年だったそうなので、今は樹齢8年超といったところか。

見ごろを迎えた蜂須賀桜

蜂須賀桜(1)

蜂須賀桜(2)

蜂須賀桜(3)

蜂須賀桜(4)

法光寺を訪れたのは、2022年3月15日。例年だと見ごろを過ぎているが、今年の冬は寒かったせいか、蜂須賀桜の開花も遅れたようだ。

法光寺の来歴

法光寺|越谷市三野宮

法光寺の来歴について簡単にふれておく。
 
浄土真宗本願寺派の寺で、今日山法光寺(こんにちざん・ほうこうじ)と号す。創建400年を伝える古刹だが、もともとは越谷にあった寺ではない。平成5年(1993年)に、築地(東京都中央区)から、この場所に移転してきた。
 
法光寺は、江戸前期・元和3年(1617年)、浅草横山町(現在の中央区東日本橋)に創建された本願寺浅草御堂(あさくさみどう)の寺内寺院として建立された。
 
明暦3年(1657年)の振袖火事と呼ばれる大火で寺内の堂宇は全焼。浅草御堂とともに築地に移る。この御堂が現在の築地本願寺の始まり。その後、大正12年(1923)の関東大震災で被災、再建。
 
昭和63年(1988年)不慮の火災で法光寺は本堂を焼失。平成5年(1993年)に、この場所(越谷市三野宮)に本堂・伽藍を新築し、墓地も築地から移転した。
 
地元の古老の話では、「法光寺が引っ越してくるまで、越谷には浄土真宗のお寺がなかったので、檀家は寺を探すのに苦労した」とのことである。
 
平成9年(1997年)、写楽の正体と目(もく)されてきた斎藤十郎兵衛の実在を示す過去帳(※1)が法光寺で見つかり、話題になった。

※1 過去帳…檀家の死者の戒名や俗名、死亡年月日、死んだときの年齢などを記した帳簿のこと。

 
境内には写楽の記念碑も建てられている。

写楽記念碑

写楽記念碑|法光寺

上の写真は写楽の記念碑。法光寺で発見された過去帳の写しと戒名のほか写楽の代表作品二点が彫られたプレートが埋め込まれている。

写楽について

東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく=通称・写楽)は、江戸時代の浮世絵師。生没年は不詳。江戸後期・寛政6年(1794)から翌年にかけて、およそ10か月の期間に約145点の錦絵作品を出版したあと、浮世絵界から姿を消した。

作風

写楽の錦絵は、歌舞伎役者の顔をアップで大きく描いた「大首絵」(おおくびえ)と呼ばれる作風で、人気を集めた。

写楽の代表的な大首絵

写楽記念碑|法光寺

[出典]東京国立博物館 研究情報アーカイブス(https://webarchives.tnm.jp/)

上の左の写真は、演目「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)で、江戸兵衛役を演じた三代目歌舞伎役者・大谷鬼次(おおたにおにじ)を描いた「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛図」
 
右の写真は、「恋女房染分手綱」で、竹村定之進(たけむらさだのしん)役を演じた市川鰕蔵(いちかわえびぞう)を描いた「市川鰕蔵の竹村定之進図」。この絵に描かれている市川鰕蔵は五代目・市川團十郎で、当代随一の名優とうたわれた。

写楽記念碑

写楽の記念碑にも「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」(左)と「市川鰕蔵の竹村定之進」(右)が刻まれた絵がプレートに組み込まれている。

写楽の正体

写楽の本名・生没年・出生地などは不明で、正体については、さまざまな研究がなされてきたが、現在では、阿波の能役者・斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)だとする説(※2)が有力になっている。

※2 江戸後期・天保15年(1844年)に、江戸の考証家・斎藤月岑(さいとうげっしん)が著わした『増補浮世絵類考』の中にある「写楽は俗称・斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」という写楽の素性に関する記述。

写楽と法光寺

法光寺の来歴(上述)にも記したが、平成9年(1997年)6月、法光寺に調査で訪れた徳島市のNPO法人「写楽の会」によって、寺に保存されていた資料の中から、斎藤十郎兵衛の存在を裏付ける「過去帳」が見つかった。
 
見つかったのは、江戸後期・文政3年(1820)庚申年の過去帳で、「文政三庚申年 辰三月七日 釋大乗院覚雲居士 八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳千住ニテ火葬」と記されていた。
 
大意は「八丁堀地蔵橋に住んでいた阿州(阿波藩)出身の斎藤十郎兵衛という人物が、文政3年3月7日に58歳で死去し、千住で火葬にされた。戒名は釋大乗院覚雲居士」。

過去帳の写し

法光寺 過去帳|写楽記念碑

その過去帳の写しが記念碑に刻まれている(上の写真)。この過去帳の発見によって、斎藤十郎兵衛が実在したことが判明。「写楽=斎藤十郎兵衛」説が、いちだんと有力になった。

写楽=斎藤十郎兵衛(?)

法光寺の写楽記念碑の最上段には「東洲齋写樂 大乗院釋覺雲居士 斎藤十郎兵衛」と刻まれたプレートが組み込まれている。
 
記念碑横の案内板によると、過去帳を元に「斎藤家代々について調査した結果、江戸前期・寛文8年(1668)から明治初期に至る約200年の間に、およそ30人の先祖の記録が確認され、斎藤家と菩提寺・法光寺との密接な関係が推察される」という。
 
法光寺で発見された過去帳によって「阿波の能役者である斉藤十郎兵衛という人物が実在した」ということは、ほぼ間違いない。
 
越谷市民としては、斉藤月岑(さいとうげっしん)が『増補浮世絵類考』で記した「写楽は斉藤十郎衛である」という説を確実に裏付ける資料が発見されることを切に願うばかりである。

境内の風景

今日山法光寺

石畳の参道を進むと正面に本堂がある。本尊は阿弥陀如来。本堂の裏手と左手は墓地になっている。境内には、蜂須賀桜と写楽記念碑のほかには、石塔や石仏などは見あたらない。

松尾芭蕉の句碑

松尾芭蕉の句碑

墓地の片隅に松尾芭蕉の句碑があった。「世にさかる 花にも念佛 申しけり 芭蕉」と刻まれている。句意は「今を盛りに咲き誇る花に対しても(ありがたさから)つい念仏がこぼれでる」。

句碑の裏面には「師や活や 夢の浮世に ひと絵かな」(えん)という句が刻まれていた。「えん」とは誰なのか。調べてみたが分からなかった。芭蕉を師と仰ぐ女性俳人かもしれない。またはこの句碑を寄進した女性が詠んだ句かもしれない。

参拝情報

今日山法光寺|越谷市三野宮

浄光寺の住所は、〒343-0036 埼玉県越谷市三野宮1336( 地図 )。最寄駅は東武伊勢崎線のせんげん台駅。行き方は、バスの場合、せんげん台駅西口から朝日バスに乗って「獨協埼玉中学・高校」バス停で下車。徒歩約3分。乗車時間は約7分。タクシーだと約3分。車の場合は、獨協埼玉中学高等学校を目安に。学校の東隣が浄光寺。駐車場は境内にある。

参考文献

参考文献

  • 法光寺「写楽と法光寺」https://houkouji-koshigaya.com/sharaku-and-houkouji/
  • 越谷市『越谷市内の寺院』「法光寺」https://www.city.koshigaya.saitama.jp/smph/citypromotion/rekisibunka/jiin_jinja/jiin.html
  • 美術館 collection『東洲斎写楽について』http://art.xtone.jp/artist/archives/sharaku-toshusai.html
  • 刀剣ワールド/浮世絵「浮世絵師『東洲斎写楽』の生涯」https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/tosyusai-sharaku/
  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「東洲斎写楽」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD
  • e国宝「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」https://emuseum.nich.go.jp/detail?&langId=ja&webView=&content_base_id=100297&content_part_id=26
  • e国宝「市川鰕蔵の竹村定之進」https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100297&content_part_id=019&langId=ja&webView=
  • 日本石仏協会(2000)「石仏巡り入門―見方・愉しみ方」大法輪閣.
  • 越谷市史編さん室(1983)『越谷の歴史物語(第三集)』越谷市史編さん室「村田多勢子と渡辺弸」103頁