2021年4月14日。埼玉県越谷市大成町二丁目にあるサロン中村古書画コレクションを見学した。中村家は市内最古の旧家で、歌川広重の肉筆画をはじめ西郷隆盛・勝海舟・福沢諭吉・渋沢栄一など所蔵されている書画は600点を超える。幕末の剣豪として名を馳せた中村有道軒(うどうけん)は中村家23代当主。宅地内では越谷市の天然記念物に指定されている樹齢300年超のクスノキや石仏も見ることができた。
東方村の名主・中村家の歴史
中村家は、平安末期から鎌倉期にかけて活躍した武士団の一族、大相模氏の系譜を継いだ家柄。江戸時代は東方村(ひがしかたむら=現・越谷市大成町)の名主として有力な地位を占めていたが、江戸中期の享保年間に、大相模氏から中村姓に改姓した。現在の当主は27代目。越谷市内でもっとも古い名家で千年の歴史を誇る。
かつて、構堀(かまえぼり)をめぐらせた約六千坪の広大な宅地は、うっそうとした林に覆われ、城砦(じょうさい)の趣をそなえた屋敷構えであった。その後、家宅は近代屋敷に建て替えられ、敷地の一部は売却されて住宅団地になった。屋敷地の様相は一変したが、今も敷地は広大。宅地の周囲に残っている構堀や土塁跡から往時の姿がしのばれる。
サロン中村古書画コレクション
中村家では「サロン中村古書画コレクション」として、代々収集してきた古書画を母屋・客間・回廊などで公開展示している。見学は要予約。展示は「常設展示」と「各月展示」に分かれ、当主が一点一点、作品を案内しながら解説してくれる。
サロン中村古書画コレクション内の撮影は禁止のため写真は撮れなかったが、今回、展示室には、歴史の教科書に名を連ねる人物の書画が数多く公開されていた。
書では、幕末維新の英傑、佐久間象山・吉田松陰・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・木戸孝允・坂本龍馬・西郷隆盛・三条実美・大久保利通・勝海舟・山岡鉄舟をはじめ新井白石・福沢諭吉・渋沢栄一の真筆……ほか。
絵は、歌川広重「江戸名所百景御殿山之図」、歌川豊春「藤娘図」、月岡雪斎「春景美人図」、鳥文斎栄之「春景花魁図」など、江戸時代を代表する浮世絵師の肉筆画を間近で見ることができた。また、江戸時代の絵師・狩野梅雲が中村家に宿泊したさいに描いた襖絵(ふすまえ)「四季花卉図」も見せていただけた。
幕末の名剣士・中村有道軒
中村家からは、幕末の名剣士とうたわれた中村有道軒(なかむらうどうけん)という人物が出ている。
江戸後期・天明4年(1784)11月26日に中村家に生まれた。通称は万五郎。幼いときから剣術を好み、武州埼玉郡清久村(現・久喜市)の戸賀﨑知道軒(とがさき・ちどうけん)と、二代目の有道軒の元で神道無念流(しんとうむねんりゅう)を学んだ。
18歳で初伝を許された万五郎は剣術修行のために諸国を遍歴。有名剣士と技を競ったが、敗れたことはなかったという。その後、故郷の東方村に戻り道場を開設した。門弟は千余人を数えた。
万五郎が35歳のとき、師の戸賀﨑有道軒が死に臨んで、自分の子供はまだ12歳の幼年であることを理由に、万五郎に有道軒(うどうけん)の号を継がせ、道場の運営にあたらせた。師弟の養成につとめた中村有道軒は江戸末期・万延元年(1860)3月、77歳で病没した。
門弟たちはその夏、大聖寺(大相模不動尊)境内に石碑を建ててその遺徳を讃えた。この石碑は今も大聖寺(越谷市相模町)の境内にある。上の写真がその石碑。裏面には主な門弟らの名前149名が記されている。正面には「有道軒先生碑」と刻銘され、その下に碑文と詩が書かれている。碑文と詩は、漢学者として名を馳せた大槻磐渓(おおつきばんけい)が記している。
宅地内の見学スポット
古書画を見学したあと、当主に宅地内を案内していただいた。当主の許可を得た場所については写真を撮ることができた。上の写真は石灯籠。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。補修して建てなおした。
正門
正門は富士山を拝む方角に向いて建てられている。かつては門のはるかかなた先に富士山が望めたという。現在は鉄扉になっているが、かつては立派な長屋門(※1)だった。
※1 武家屋敷でみられた門の形式。門の両側が長屋となっていて、そこに家臣や下男を住まわせた。長屋門は農村においては名主や庄屋など村役人を務める上層の農民だけに建てることが許されていた。
剣道場跡地
敷地の南端には剣道場があった。今は剣道場の跡地はカリンの林になっているので、当時の面影は感じられない。剣道場の裏手には松の大木が二本あって、稽古に通う者たちはその松を目印に道場に来たという。
中村家のクスノキ
母屋の東側にある林の中でひときわ存在感を放っている巨木はクスノキ。樹高25メートル、幹周り3.65メートル。推定樹齢は300年超。樹勢はきわめて旺盛。このクスノキは「中村家のクスノキ」の名で、越谷市の天然記念物に指定されている。
石塔
クスノキの根元に二基の石塔(疱瘡神供養塔と伊南理大神文字塔)が並んでいる。かつてクスノキの対面に神明社が勧進されていた。今はない。
伊南理大神文字塔
向かって左側の石塔は、伊南理大神(いなりだいじん)文字塔。石塔の型式は祠型。江戸後期・天保12年(1841)造立。正面に「伊南理大神」と刻まれている。左側面には「中村氏」、右側面には「天保十二辛丑四月日」とある。
疱瘡神供養塔
向かって右側は疱瘡神供養塔。石塔型式は祠型。伊南理大神文字塔と同年の天保12年(1841)に建てられた。正面に「疱瘡神」の文字が確認できる。左側面には「中村氏」、右側面には「天保十二辛丑四月日」と刻まれている。赤と白の御幣(ごへい)が置かれているが「赤」は疱瘡神が嫌うとされていることから。疱瘡神供養塔には赤い御幣が置かれることが多い。
ユーカリの化石で造られたテーブルと椅子
クスノキの近くにテーブルと椅子が置かれていた。当主の話では「このテーブルと椅子はユーカリの化石で造られた」ものとのこと。天然木のユーカリ材を使った家具は知っているが、ユーカリの化石で造ったテーブルや椅子というははじめて見た。
中村家の宅地内も古書画に劣らず見どころ満載であった。
中村家宅地周辺の見学スポット
古書画と宅地内の見学を終えて中村家を出た。せっかくなので、宅地の周囲を構堀(かまえぼり)に沿って歩いてから帰ることにした。上の写真は中村家の東側を流れる構堀。通称・見田方堀。今はコンクリートの溝蓋がされて歩道になっている。
忍領榜示石
中村家の南西角地、松の大木の前に「従是東忍領」と刻まれた榜示石(※2)が建てられている。建立年は刻まれていない。「従是東忍領」は、「従是(これより)東(ひがし)忍領(おしりょう)」と読む。ここから東は忍藩の領地であるという意味。中村家の南西角地から東が忍藩領の東方村(ひがしかたむら)になるので、村境となるこの場所に、標識石が置かれた。
※2 榜示石(ぼうじせき)とは、領地などの境界を標示するために建てられた石碑。
江戸時代、このあたり一帯(東方村=今の大成町と東町)は、忍藩(おしはん=現在の行田市)の領地(飛び地)であった。忍藩では各地に散らばった領地(飛び地)に榜示石を置いて、忍藩の領地であることを示した。東方村が忍藩に組み入れられたのは江戸中期の元禄年間なので、この榜示石の建立は、元禄年間(1700年ごろ)と思われる。
構堀
中村家の屋敷のまわりを囲んでいた構堀(かまえぼり)。今でも確認できる構堀は全長およそ800メートル。上の写真は東側の構堀跡。コンクリートの溝蓋がしてあって、近隣住民の抜け道のようになっている。構堀の内側が屋敷の土地。一段高くなっているのが分かる。これは土塁の名残。城砦のような屋敷だったことがうかがわれる。
構堀跡
中村家の宅地の一部(敷地の北側)は売却されて、現在は住宅地になっているが、住宅地の脇にもかつての構堀が歩道として今も残っている。写真の左手に見える墓地は、中村家代々の墓所がある櫻堂墓地。
櫻堂墓地|大相模中村家墓所
櫻堂墓地は、中村家の母屋から100メートルほど北にある(越谷市相模町五丁目)。入口の右手にあるのは桜堂。その横手に中村家歴代の五輪塔墓石が整然と並べられている。
板碑
中村家墓所の奥まった一画に、大小七基の板碑(※3)が安置されている。もともとは中村家の屋敷に祀られていたものをここに移した。
※3 板碑(いたび)とは、鎌倉時代から安土桃山時代(13世紀から16世紀)にかけてつくられた石造りの供養塔。正しくは「板石塔婆」または「青石塔婆」というが、一般的には板状の薄い形体から板碑と呼ばれている。
板碑|側面
横から見ると板のように薄くて平たい形状であることが分かる。
六字名号板碑
左端の板碑は「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれた供養板碑。中村家の敷地内で古木の下に祀られていた。造立は南北朝時代・文和3年(1354)。完全な形で残されている貴重な史料でもある。この板碑は「文和三年六字名号板碑」(ぶんなさんねんろくじみょうごういたび)の名で越谷市の有形文化財(考古資料)にも指定されている。
板碑の年号を刻み違えている
後日、越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏から「この板碑には『文和二年午』と刻まれている。当時の午年は文和三年であるので、文和三年の刻み違いである。年号を言う場合は、干支が一般的に使われたので、干支の表示が正しい」との補足があった。
中村家墓所の祖霊永代供養塔に手を合わせ、櫻堂墓地をあとにした。
後記
サロン中村古書画コレクションの見学は予約制。開室日は毎週水曜日・毎月第二土曜日・第四日曜日。見学は一日三組まで。詳しくはサロン中村古書画コレクションのホームページで。
追記|中村家の見学会が東武よみうりに掲載
2021年8月17日にサロン中村古書画コレクションで行なわれた見学会(市内旧家の江戸時代の絵画に親しむ会)の様子が、30日付の東武よみうりに写真付きで掲載された。当日は、大学生ら7人が参加。江戸時代後期の南画(文人画)家・谷文晁(たにぶんちょう)の作品や初代歌川広重の肉筆画などを間近に見た参加者の感想なども紹介されている。
引用文献一覧
『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「大相模中村家」pp99-100「大聖寺の境内」pp67-68
『越谷の歴史物語(第三集)』越谷市教育委員会(昭和58年3月25日発行)「中村有道軒正敏」pp105-108
『越谷市の史蹟と傳説』越谷市教育委員会・越谷市文化財調査委員会(昭和35年4月15日発行)「大相模地区」七.武蔵武士と中村氏 pp155-156
『越谷市史(一)』通史上(越谷市役所)昭和50年3月30日発行「神道無念流中村有道軒」pp1105-1106
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)「金石文」二十八 中村有道軒の碑銘 p100-101
加藤幸一『大相模地区の石仏』平成16・17年年度調査/令和元年9月改訂(越谷市立図書館所蔵)p21,pp65-66
謝辞
本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏から助言をいただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。