越谷梅林公園
越谷梅林公園に到着。約2万平方メートルの園内には、白梅・紅梅など約40種300本が植えられている。この周辺(大林・大房地区)では、梅の生産が盛んだったが、昭和50年代(1975年)ごろから宅地化が進んで梅林が激減。
「梅の名所を残したい」と、越谷市が用地買収して、昭和63年(1988年)2月に「越谷梅林公園」として開園。現在に至っている。毎年、三月には梅まつりが行なわれ、地元・大袋地区の団体による催しや模擬店などで、多くの花見客が訪れる。
見ごろ時期の園内
見ごろを迎えた園内の風景。撮影年月日は2021年2月28日。
トイレ休憩
15分間のトイレ休憩。持参した河川図や古地図を広げで情報交換する方もいて、参加者のみなさん、とっても熱心。
越谷梅林公園 西の入口
梅園を抜けて、石の階段をのぼって元荒川緑道に出る。この石階段は、越谷梅林公園の西の入口になる。
左敷田ポンプ場
元荒川の対岸(右岸)に見える施設は左敷田(さじきた)ポンプ場。左敷田は南荻島の字名(あざめい)。上の写真は拡大撮影で撮った。肉眼ではもっと小さく見える。
明治43年水害の破堤地点
正面前方に見える橋は元荒川橋。案内役の秦野氏が、「明治43年(1910)8月、元荒川橋の下流側の土手が大水害によって破堤(はてい)し、甚大な被害をもたらした」という話をしてくれた。この水害は「明治43年の大水害」と呼ばれているそうだ。
移動|大野島越谷線へ
元荒川緑道を進んで野島越谷線(埼玉県道325号)に入る。うしろから来る車に注意しながら左に進む。
外野合ポンプ場
左手(元荒川左岸)に見えるポンプ場は外野合(そとのあい)ポンプ場。外野合は荻島の字名。
元荒川橋
元荒川橋交差点は越えずに信号を左折。元荒川橋を渡って元荒川の右岸側に出る。元荒川橋は昭和41年(1966)10月に架橋された。右手の道路は草加バイパス(国道4号)。
元荒川緑道|右岸
元荒川橋を渡ってすぐを左折。元荒川右岸側の土手道(元荒川緑道)に入る。元荒川橋の下をくぐって、上流に向かって歩く。
魚油工場跡
200メートルほど歩いたところで足を止める。「ここは、今回のガイドツアーに参加されたみなさんに、ぜひともご紹介したい場所でございます」と、案内役の秦野氏。
悪臭で公害問題に
ここは、以前、魚油(ぎょゆ)工場があって、廃液を直接元荒川に垂れ流していたので悪臭がひどく、問題になった場所で、越谷市における公害問題の原点ともいえる地だそうだ。
この様子は、昭和38年(1963)12月14日の「埼玉新聞」に「工場汚水で魚減る 元荒川がもっともひどい」と題され、掲載された。上記の記事を以下に引用する。
問題の魚油工場は、越谷市南荻島の〆切橋近くに昨年(昭和37年〈1962〉)八月建設され魚のアラを煮て魚油を製造している。廃液は直接元荒川に放流されるため、〆切橋から吉川橋間の八キロの河床に魚カスが沈殿し投網や四ツ手網は、これが網に付着するため使えなくなった。また汚水のため魚が繁殖せず、悪臭がついて食べられないという。
引用元:新聞でみる越谷の世相(※7)
※7 本間 清利(1977)「新聞でみる越谷の世相」『越谷市史 第二巻 通史下』越谷市役所 1050-1051頁
ほんとに臭かったよ。ここの臭いが越谷じゅうに広がっているんじゃないかと思うほど、とにかく臭かった。下流で釣りをしていると、釣り糸に魚の油がびっしり付いちゃって、釣りもできないんだ。
この魚油工場は、私が小学生のころの昭和40年代も稼働しており、〆切橋の近くへ行くと、ただただ臭かったことだけを強烈に記憶しています。
〆切橋
魚油工場跡から少し歩くと、右手に橋が見える。この橋は、〆切橋(しめきりばし)。地元の住民にとっては生活必需の橋だったが、老朽化により 2021年4月30日に閉鎖され、全面通行止めになった。
〆切橋の歴史
316年前の江戸中期・宝永3年(1706)。当時は木造の土橋であった。現在の橋はコンクリート橋。昭和12年(1937)に架橋された。
〆切橋再開への第一歩
今年(2022年)、〆切橋の再開に向けて越谷市の予算が下りたことが報告されている。架け替えか補強かは未定だが、うれしい話だ。
元荒川緑道
〆切橋をあとに元荒川緑道を歩く。道ばたで、オレンジ色のカンナが、ガイドツアー参加者一行(いっこう)を見送ってくれた。
大竹排水機場
元荒川の対岸に大竹排水機場が小さく見える。
移動|砂原久伊豆神社へ
さらに 400メートルほど歩くと、左手の土手下に砂原久伊豆神社が見えてきた。砂原久伊豆神社へは元荒川緑道(右岸)から行くことができる。
越谷用水
土手から砂原久伊豆神社に入るところに、小さな石橋が架かっていて、その下を用水が流れている。この用水は越谷用水。石橋を渡って砂原久伊豆神社へ入る。