2022年3月5日。梅が見頃を迎えた埼玉県北越谷の浄光寺を訪れた。梅の名所として名をはせた古刹で、俳人・高浜虚子も浄光寺の梅を句に詠んでいる。境内の梅の花をはじめ石仏や句碑、薬師堂・五智如来堂など散策スポットを写真と動画に収めた。
浄光寺と古梅園
浄光寺の周辺地域は、古くから桃や梅の栽培が盛んであった。梅は古木になると実が採れなくなるので、古木は伐採され、新木に植え替えられた。そこで、伐採される古木を浄光寺の境内に移植し、観光を目的とした古梅園が、明治35年(1902年)3月に開園された。
浄光寺の古梅園は「越ヶ谷梅園」と呼ばれ、東武鉄道が観光宣伝に力を入れたこともあって、梅の開花時期には多くの花見客でにぎわった。境内には、休憩所や出店も並び、土産物屋では、梅ようかんや、絵はがきなどがよく売れたという。
観梅の季節に行なわれる「はげ頭大会」は、テレビや新聞でも採りあげられるほどの人気行事で、海外のニュースでも放映されたという。園遊会や句会も催され、正岡子規や高浜虚子なども句を残している。
浄光寺の古梅園は、昭和40年代ごろまで、にぎわいをみせていたが、平成の本堂改築と諸堂建立のさいに、多くの古梅が伐採されてしまい、今では、数本の梅が、当時の面影を残すだけとなってしまった。
古梅園記念碑
境内には、明治35年(1902年)3月の古梅園開園を記念して、大正2年(1913年)に建てられた自然石の記念碑がある。表面には「古梅園記念」と刻まれ、裏面には発起人と賛助員の名前が見える。
高浜虚子句碑|初代
昭和10年(1935年)ごろ、浄光寺で催された園遊会に招かれた俳人の高浜虚子は「寒けれど あの一(ひと)むれも 梅見客」の句を短冊にしたため、記念にと置いていった。
高浜虚子のこの句を刻んだ昭和50年(1975年)建碑の句碑が、池のほとりに建てられている。「寒けれど あの一むれも 梅見客 虚子」と、虚子の直筆をそのまま模写して自然石に刻まれている。
浄光寺・高浜虚子の短冊
虚子直筆による短冊(※1)は浄光寺で保存されている。
※1 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 浄光寺・高浜虚子の短冊)
高浜虚子句碑|二代目
高浜虚子の句碑(寒けれど あの一むれも 梅見客)は二基ある。上の写真は薬師堂と梅照殿(斎場)の間にある句碑。先代の句碑が古くなってきたので、新しく建てられた。こちらも虚子の直筆がそのまま模写されている。
見ごろを迎えた梅10景
①無縁堂前|古木
②本堂前|白梅
③客殿前|古木
④池正面|白梅
⑤客殿入口|しだれ梅
⑥池のほとり|梅花
⑦池のほとり|古木
⑧池のほとり|紅梅
⑨五智如来堂|紅梅
⑩五智如来堂|白梅
満開の枝垂れ桜|動画
浄光寺の略歴
浄光寺の来歴について簡単にふれておく。
浄光寺は真言宗の寺院で、熊野山観音院と号す。開山の年代は不詳だが、平安初期・大同2年(807)創立と伝えられる薬師堂を受け継いだ古刹(こさつ)で、650余年の歴史をもつと伝えられている。本尊は聖観世音菩薩。
明治35年(1902年)3月には、古梅園が開園され、以来「梅の寺」として知られるようになった。平成9年(1997年)の本堂新築のさいに、境内地も整備され、古梅園は姿を消したが、手入れの行き届いた庭園が、往時の風情をしのばせている。
昭和50年(1975年)3月、本堂裏手の墓地造成地から「開元通宝」(かいげんつうほう)「皇宋通宝」(こうそうつうほう)「永楽通宝」(えいらくつうほう)など、48種類の中国古銭1,828枚が出土したが、誰が何のために埋蔵したかは不明。今のところ謎となっている。
新四国八十八箇所第三十番札所
浄光寺は、新四国八十八箇所霊場の30番目の札所(ふだしょ)になっていた。新四国八十八箇所霊場は、四国の八十八ヶ所霊場を模して、江戸時代に開設された。
1番札所である西新井大師(東京都足立区)を起点に、草加・越谷などの寺院を巡って、88番の慈林寺(川口市安行)で終了する。南足立郡・北足立郡・南埼玉郡にある弘法大師ゆかりの寺院をめぐることから「三郡送り大師」とも呼ばれた。
浄光寺には弘法大師像が祀られている。