2021年5月14日。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催の巡検に参加。東武伊勢崎線・蒲生駅東口を起点に、旧日光街道(日光道中)周辺と綾瀬川左岸沿いの古道を歩きながら石仏や史跡を見学。越谷市蒲生地区(旧・蒲生村)の旧家や神社仏閣と歴史を巡った。
集合|蒲生駅東口
集合場所は蒲生駅東口。受付時後、資料を渡された。参加者は18人。今回参加したのは、NPO法人・越谷市郷土研究会の地誌研究倶楽部が主催する巡検「蒲生村の石仏と歴史・日光街道(日光道中)編」
主な巡回先は、砂利道寄付石塔…菅原天神社…清蔵院…ぎょうだいさま…不動堂の道しるべ…茶屋通り…出羽橋(蒲生橋)…岩槻道…虚空蔵堂…槐新田(さいかちしんでん)の道しるべ…慈恩寺道の道しるべ…久伊豆神社(小鎮様=しょうちんさま)…涅槃堂…地蔵院…ほか。
挨拶|出発前
13時。案内役を務める越谷市郷土研究会・加藤氏のあいさつのあと、本日の概要と注意事項が伝えられた。
蒲生駅の歴史
出発に先立ち、加藤氏から蒲生駅の歴史について説明があった。蒲生駅は、明治32年(1899)8月、東武鉄道が北千住と久喜間で開通した同年12月に開設。当時の駅舎の場所は、現在の新越谷駅だった。当時の駅舎のそばには(新越谷駅西口)、今も「停車場」(ていしゃば)と呼ばれた屋号の家がある。現在の場所には、8年後の明治41年(1908)に移転した。
同行の渋谷氏が、昭和35年ごろに撮ったという蒲生駅の写真を見せてくれた。当時は、駅前に、蒲生駅開業記念に植えられたイチョウの大木があったそうだ。駅舎は待合室のついた木造平屋建てで、下りホームへは路線を横断していくというのどかな時代だった。
蒲生駅東側は古戦場だった?
蒲生駅の東側一帯は、現在「寿町」と呼ばれていますが、かつては家がほとんどないさみしい場所で、大小の塚がいくつもありました。その中で最大の塚が日光街道の東側、現在の東武こしがや自動車教習所のあたりにあって「金塚」と呼ばれていました。大小の塚や金塚は、江戸時代以前の中世の古戦場跡地の墳墓ではないかと推測されます。
出発|蒲生駅前通り
13時10分、出発。蒲生駅前通りを直進。旧日光街道「蒲生駅入口」信号を左折。
旧日光街道|両脇は水路だった
旧日光街道(埼玉県道49号足立越谷線)を北に進む。右手に東武こしがや自動車教習所が見える。江戸時代、日光街道(日光道中)の両脇は水路だった。東側(東武こしがや自動車教習所側)には四か村用水(しかそんようすい)、西側(東武伊勢崎線側)には西堀(にしぼり)が流れていた。
蒲生小学校跡|東武こしがや自動車教習所前
蒲生駅入口(信号)から150メートルほど歩くと押しボタン信号にぶつかる。道路を挟んで東武こしがや自動車教習所があるが、かつて教習所の場所には、日光街道に面して蒲生小学校があった。蒲生小学校は明治32年(1899)に開校、昭和37年(1962)ごろまで使われた。ちょうど信号のあたりが蒲生小学校の正門だった。
小学校正門前の文房具店|中野和紙店
信号の手前にあるお店は中野和紙店(越谷市蒲生寿町)。蒲生小学校があった当時、中野和紙店は文房具屋だった。道路を挟んで蒲生小学校の正門前にあったので、子どもたちにとっては馴染みのお店だったに違いない。なお文具店を営む前は、「縄手の足袋屋」という屋号の足袋屋だった。
蒲生村の役場跡
中野和紙店の並びに蒲生交流館があるが、かつてここには蒲生村の役場があった(越谷市蒲生寿町4-9)。蒲生村は、明治22年(1889)に、瓦曽根村(かわらぞねむら)登戸村(のぼりとむら)蒲生村(がもうむら)の三村が合併してできたが、変遷をへて、大正11年(1992)に、この場所(現・蒲生交流館)に蒲生村役場が移ってきた。
火の見櫓跡
蒲生交流館の前に公園があるが(中野和紙店の裏手)、ここにはかつて火の見櫓(ひのみやぐら)があった。公園内に四角いコンクリートの基盤が残っているが(上の写真の黄色い▼印)、そこに火の見櫓が建っていた。
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敷砂利寄付記念塔
蒲生交流館の横手、道路沿いの角地に、石塔が一基建っている(上の写真の黄色い▼印)。この石塔は、江戸中期・宝暦7年(1757)に日光街道の補修工事が施工されたときに、敷砂利(しきじゃり)を寄付した記念に建てられた。
寄付者は常陸と下野の名主
石塔の正面には「此の橋より北通り、長さ三百間の場所、常州茨城郡袖山勝秀、寄附」、右側面には「此の内、拾間の場、野州芳賀郡添野長俊、寄附」と刻まれている。
敷砂利を寄付をした二人は常陸(ひたち=茨城県)と下野(しもつけ=栃木県)の名主でした。日光街道は、越谷だけでなはく、栃木や茨城の人々にとっても大切な道だったことがうかがわれます。
蒲生中学校跡|東武こしがや自動車教習所
手押し信号を渡って、東武こしがや自動車教習所側へ移動。旧日光街道を南に歩く。かつて教習所の北半分は蒲生小学校だったが、南側の敷地には、戦後、昭和22年(1947)に蒲生中学校(蒲生村立)が建てられた。
移動|旧日光街道(蒲生本町)
蒲生駅入口交差点を過ぎ、蒲生西町交差点を渡って、そのまま旧日光街道を直進。江戸時代、日光街道の東側沿いには四か村用水(よんかそんようすい)が流れていた。
脇道に入る
がもう動物病院を過ぎてT字路を左折。脇道に入る。懐かしい路地裏の風景だ。
菅原天神社|蒲生本町公会堂
13時45分。菅原天神社に到着。越谷市蒲生本町13-18。敷地内には蒲生本町自治会館もある。入口にある看板に菅原道真が詠んだ和歌「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」が書かれている。
蒲生本町の鎮守
菅原天神社は蒲生本町・旧蒲生村東組(※1)の鎮守。今はこぢんまりとしているが、かつては190坪もの広さがあり、構堀に囲まれたりっぱな社だった。毎年、1月15日には天神祭があり、組中に紅白の餅が配られてお祝いをした。境内では子ども相撲もおこなわれたという。
※1 蒲生村には、下茶屋・上茶屋・奉行地・道沼・東組・西組、五つの小名(こな)があった。
青面金剛像庚申塔
青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸後期・寛政12年(1800)年造立。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿が陽刻されている。右側面には「寛政十二年庚申九月吉日」、左側面には「天下泰平 国土安全」のほか、寄進者七人の名前が刻まれている。
石塔は風化が進んでウメノキゴケに覆われている。ウメノキゴケ(梅の樹苔)とは、古い石仏によく見られる白いまだら模様。白いカビやセメントで補修したようにも見えるが藻類と菌類が共生している地衣類(ちいるい)の一種。コケの仲間でもない。梅や松の古木や岩などに着生する。大気汚染に弱いので、その指標に利用されたりもする。
安永二年の石塔
「□理性院本浄」「安永二癸巳天」「五月□向一日」と刻まれた江戸中期・安永2年(1773)年の石塔。とても珍しい院号の文字が見られるのが謎。何の石塔かは不明。墓塔か。
力石
「奉納 二十二貫」と刻まれた力石(ちからいし)。22貫は約83キログラム。かつては境内で若者たちが力比べを行なった名残だろう。
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東のお大尽|おおごうや
菅原天神社から東へ100メートル。東のお大尽(ひがしのおだいじん)と呼ばれた旧家がある。戦前は村長も務めた。「おおごうや」という屋号で紺屋(こうや)=染物屋を営み財をなした。「おおごうや」は漢字で書くと「大紺屋」。大きな紺屋の意味と思われる。
江戸時代、蒲生村には二人の名主がいました。ひとりは、西のお大尽と呼ばれた西組のお大尽の中村家、もう一人は「ぎょうだい様」のあたりに住んでいた大熊家です。日光街道沿いに住んでいたので屋号を「街道」(けいどう)と呼ばれました。
続いて清蔵院へ
清蔵院
東のお大尽宅をあとに道を南西に戻る。100メートルほど歩くと清蔵院(せいぞういん)に着いた。住所は越谷市蒲生本町13-41。りっぱな冠木門(※2)が目を引く。
※2 冠木門(かぶきもん)…門柱に冠木(かさぎ=両方の柱をつなぐ横木)を渡して造られた屋根のない門のこと。
山門
清蔵院は、戦国時代の天文3年(1534)創建と伝えられる真言宗の古刹。山門は、屋根など部分的に改造されてはいるが、屋根の改修工事の際に江戸前期・「寛永十五年二月」(1538)と書かれた棟札が見つかり、一説に日光東照宮の造立に関連した関西の工匠によって建立されたと考えられている。この山門は「清蔵院の山門」の名で、越谷市の有形文化財(歴史資料)にも指定されている。
山門の龍
山門の梁間(はりま)に、金網で囲われた龍の彫刻が掲げられている。
山門の龍|本体写真
※上の写真は越谷市郷土研究会・谷岡隆夫氏提供
山門の龍伝説
案内役の加藤氏が、山門の龍にまつわる二つの伝説について話をしてくれた。
この山門の龍は、江戸初期、日光東照宮造営のため日光に向かった左甚五郎(※3)が、一夜の宿のお礼に彫ったと言われています。ところがこの龍が、夜な夜な付近の田畑に出没し、荒らし回って村人を困らせていたことから、当時の住職が、山門から出ないように龍の目に釘を打ち込み、金網で囲った、という伝説が残っています。
これとは別に、棺桶がこの山門をくぐると急に軽くなる。それは、棺桶の中の遺体が山門の龍に食べられてしまうからだろう、ということで、龍には網を張り、釘でとめられているとの言い伝えがありましたが、こちらが本来の言い伝えだと思われます。
※3 左甚五郎(ひだりじんごろう)…江戸初期に活躍されたとされる伝説的な彫刻職人。日光東照宮の眠り猫や知恩院の忘れ傘など甚五郎作といわれている彫り物が全国各地でみられる。