日光街道と岩槻道の追分

日光街道と岩槻道の追分

蒲生橋のところで、綾瀬川左岸側の土手道と、旧日光街道(蒲生茶屋通り)が合流している。かつてここを起点に、綾瀬川左岸を流れていた出羽堀と並行して、岩槻方面に通じる岩槻道(いわつきみち)と呼ばれる古道があった。蒲生橋は、日光街道(日光道中)と岩槻道の追分でもあった。

岩槻道を歩く

綾瀬川左岸の土手道(岩槻道)

蒲生橋(日光街道と岩槻道の追分)から綾瀬川左岸の土手道(岩槻道)を上流に向かって歩く。右手のフェンス横下は出羽堀跡。土手道に沿って、かつての水路跡が残っている。今は出羽堀は流路が変わっているので、ここは流れていない。

虚空蔵堂跡

綾瀬川左岸の土手道(虚空蔵堂跡)

土手道(岩槻道)を上流に向かって歩ること約50メートル。左手前方に見える橋は綾瀬橋。かつてこのあたり(岩槻道沿い)に、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を祀るお堂・虚空蔵堂(こくぞうどう)が、岩槻道の綾瀬川側にあったが、河川敷の整備によって、50メートルほど上流側に移された。

虚空蔵堂|蒲生愛宕町第二会館

虚空蔵堂|蒲生愛宕町第二会館

さらに歩を進めると、土手道の右下に小さな祠(ほこら)がある。祠の横は蒲生愛宕町第二会館。住所は越谷市蒲生愛宕町1-41。手前には、祠の移転を記念して建てられた「協力移転記念碑」と、その横に三基の石塔が並んでいる。この場所に、岩槻道の綾瀬川側にあった虚空蔵堂が移された。
 
虚空蔵堂の本尊である虚空蔵菩薩像は、祠の中ではなく、蒲生愛宕町第二会館内の厨子(ずし)に安置されている。厨子は12年に一度、丑年に開帳され、本尊の虚空蔵菩薩像を拝むことができる。普段は非公開。
 
祠の額には「大山阿夫利神社」(おおやまあふりじんじゃ)と書かれている。大山阿夫利神社は神奈川県伊勢原市の大山にある神社で、江戸時代は「大山詣り」がさかんにおこなわれた。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

三基並んでいる右端の石塔は青面金剛像庚申塔。江戸中期・正徳元年(1711)建立。石塔型式は笠付き角型。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が陽刻されている。脇銘は「奉供養庚申講結衆」「為二世安楽祈所敬白願主」。下部には、甚右ヱ門・平三郎・甚兵衛ほか12人の名前が見える。左側面には「武蔵国埼玉郡八條領茂生村(※6)」、右側面には「正徳元辛卯九月吉祥日」とある。

※6 茂生村…蒲生村のこと。古くは蒲生は茂生とも表記された。

観音像付き道標石塔

観音像付き道標石塔

真ん中の石塔は観音像が載った道標石塔。上部の観音菩薩像は江戸中期・寛保4年(1744)造立、下の道標は、江戸前期・延宝5年(1677)のもの。もともとは道標だけだった石塔のうえに、後年、観音像が載せられた。
 
道標の正面には「これよりぢおんじミち 四里」と刻まれている。「じおんじみち」(慈恩寺道)とは、岩槻にある慈恩寺に通じる道で、岩槻道のこと。慈恩寺は天台宗の古刹。今もある。江戸時代は、岩槻道は、主に「慈恩寺道」と呼ばれていたようだ。

塞神塔

塞神塔

左端は自然石の塞神塔(さえのかみとう)。悪霊の侵入を防ぐ神様。道の神の道祖神(道陸神=どうろくじん)と習合されて同一視される。年代は不詳。正面に「塞神」と刻まれている。

綾瀬橋

綾瀬橋

15時30分。虚空蔵堂(蒲生愛宕町第二会館)をあとに岩槻道を進むと、足立越谷線(埼玉県同49号)にぶつかった。左手の橋は綾瀬川に架かる綾瀬橋。綾瀬橋から先は草加市。足立越谷線の横断歩道を渡った先は綾瀬川左岸沿いを通る岩槻道になる。

蒲生青果市場跡

蒲生青果市場跡|ガスト南越谷店

右前方を見ると、足立越谷線沿いにガスト南越谷店がある(越谷市蒲生1-7-22)。「かつてここには蒲生青果市場があった」。同行の渋谷氏が当時の写真を見せながら解説してくれた。

成田山道標石塔|岩槻道

成田山道標石塔

足立越谷線の横断歩道を渡って、綾瀬川左岸沿いの岩槻道に入る。50メートルほど歩くと、ガードレールの脇に「成田山」と刻まれた道しるべがある。石塔型式は駒型。江戸末期・元治2年(1865)造立。地元では成田山信仰がさかんだったことがうかがわれる。

本来は日光街道と岩槻道の追分にあった

道しるべ

正面の最頂部に輪宝を表わす標章、中央に「成田山」と刻まれている。正面の下部に「槐新田江 一里」、左側面に「越ヶ谷江一里」、右側面に「草加江一里」と記されている。そのほか左側面と右側面の下には、恵比寿屋伝兵ヱ・伊勢屋平八・高砂屋喜兵ヱ・緑屋銀蔵など、世話人10人の名前がみえる。

案内役の加藤氏

この道しるべは、本来は(先ほど見学した)蒲生橋(旧称・出羽橋)そばの日光街道と岩槻道との追分にあったと思われます。追分から北方一里先に越ヶ谷宿、南方一里先に草加宿、岩槻道を進んで一里先で槐新田(さいかちしんでん)に到達しました。槐新田は今の新川町のあたりと思われます。

染物工場跡|岩槻道の茶店跡

染物工場跡|岩槻道の茶店跡

道しるべの対面は綾瀬川の左岸。左手に見える橋は綾瀬橋。かつて、綾瀬橋の西側たもとあたりの岩槻道の綾瀬川沿いに「紺又」(こんまた)という染物工場があった。綾瀬川沿いにあったので「綾瀬川の紺又」と呼ばれていた。昔は、綾瀬川の川幅は今の三分の一程度だったため、川幅拡張整備によって、染物工場の跡地は川底に沈んでしまった。面影はまったく残っていない。

案内役の加藤氏

このあたりは、岩槻道と日光街道を行き交う人々も多く、茶店(駒崎家)がありました。茶店は人足や旅人たちの休憩所にもなっていて、縁台に腰をおろして、豆腐や天ぷらでモッキリと呼ばれるコップ酒を飲んでいる姿も多く見られました。子ども相手の駄菓子やラムネのほか、手焼きのせんべいも売られていたようです。(『ふるさと蒲生の歴史ものがたり[上]』102頁及び渋谷正芳氏)

出羽堀跡遊歩道

出羽堀跡遊歩道

道しるべをあとに、出羽堀跡を整備して造られた遊歩道を歩く。左手は岩槻道と綾瀬川。右手は閑静な住宅地。かつては出羽堀がここを通って南下していた。現在の公園内の道路は散策を楽しむために蛇行しているが、本来の出羽堀は直流だった。

半七河岸跡

半七河岸跡

100メートルほど歩くと小さな十字路に出る。左手は綾瀬川(左岸)。右に進むと茶屋通り(日光街道)の東組の名主である大熊家に出る。かつて、左手の綾瀬川左岸には、半七河岸(はんしちかし)と呼ばれる河岸場(かしば)があった。綾瀬川の河川拡張整備によって今は川底に沈んでしまったが、90坪近くあったというから、江戸時代はとても栄えていて、下流にある藤助河岸(とうすけかし)の二倍の規模を誇った。
 
また、この地点には、出羽堀に土橋(どばし)が架かっていた。河岸場と旧日光街道(茶屋通り)を行き来する荷物の運搬はこの土橋を通って行なわれた。

蒲生久伊豆神社

蒲生久伊豆神社

出羽堀跡の遊歩道を進むと、左手に蒲生村の総鎮守・久伊豆神社がある。住所は越谷市蒲生1-10。東武鉄道の電車からよく見える森のある神社である。上の写真の黄色い▲印は東武伊勢崎線の鉄橋。拝殿に向かって左手が綾瀬川、右手が旧・出羽堀。創建はつまびらかではないが、江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「蒲生村」の項には「村の鎮守なり、応永年中の鎮座と云」とある。
 
時間が押してきたので、蒲生久伊豆神社には参拝しないで、そのまま道を進む。

慈恩寺道の道しるべ|岩槻道

慈恩寺道の道標

蒲生久伊豆神社を過ぎて遊歩道を歩くこと40メートル。左手の岩槻道沿いに、石塔が置かれている(上の写真の黄色い▼印)。ブロック塀と同化して見えるので、ここからだと見過ごしてしまいそうだ。

是よりみぎちおんちミち

染物工場跡

石塔の型式は兜巾型。江戸中期・享保7年(1722)造立。正面の最頂部に梵字「ア」、中央に「是より みぎちおんちミち ひだりかちミ□」と刻まれている。左側面には「享保七年寅ノ十月」とある。「みぎちおんちミち」は「右、慈恩寺道」。この岩槻道は、岩槻の慈恩寺(じおんじ)にも通じている。
 
「ひだりかちミ□」は「左、かち道」。「かちみち」とはどういう意味か? 案内役の加藤氏が解説してくれた。

案内役の加藤氏

「かち」とは徒歩のこと。乗物を使わないで歩くこと。ですので、「かちみち」とは徒歩の道(陸路)という意味と思われます。当時は、馬などが使えず、徒歩でないと通れない細い道だったのかもしれません。

染物工場跡|出羽堀沿い

染物工場跡

遊歩道をさらに進む。今は住宅地になっているが、かつてこの一画には紺勘(こんかん)という屋号の染物工場(紺屋=こんや)があった。出羽堀沿いにあったので出羽堀の紺勘と呼ばれた。

久伊豆神社|しょうちん様

久伊豆神社|しょうちん様

さらに道を進むと、東武伊勢崎線のガード下に出る。右手の角地に小さな神社がある(越谷市蒲生西町一丁目)。蒲生村西組の鎮守・久伊豆神社で、地元では小鎮様(しょうちんさま)と呼ばれている。社碑によると、創建…永禄2年(1559)3月/再建…正徳5年(1715)2月/新築…平成13年(2001)12月とある。永禄は戦国時代、正徳は江戸中期、かなりの歴史があるようだ。

石仏と力石

石仏と力石

参道の左手には、三基の石仏と力石(ちからいし)が二基、並んでいる。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

左端は青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・宝永3年(1706)造立。正面に、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿が陽刻されている。脇銘は「于時 宝永三星舎丙天」「戌□□春吉祥日」。下部に八人の名前が刻まれている。

文字庚申塔

文字庚申塔

真ん中は文字庚申塔。石塔正式は駒型。江戸末期・慶応2年(1866)造立。正面の最頂部に「日月」が陽刻されていて、中央に「庚申塔」と刻まれている。左側面には「慶應二寅年九月吉祥日」、右側面には「願主孫蔵」とある。

「山王権現」文字塔

「山王権現」文字塔

左端は江戸後期・文政7年(1824)造立の「山王権現」文字庚申塔。石塔型式は笠付角型。正面に「山王大権現」と刻まれている。左側面の銘は「文政七申年」「三月吉日」、右側面の銘は「石宮再造之」。

案内役の加藤氏

この石塔は、もともとは、地元で「山王耕地」と呼ばれた田んぼの中にありました。そこにあった山王社が廃社になったので、ここに移されました。山王社があった場所はここから北に300メートル、越谷蒲生西団地の北側あたりです。今は住宅地になっているので景色はすっかり変わってしまいました。

力石

力石

向かって右側の力石には「奉納 二拾四貫」とある。24貫は約90キログラム。左側の力石には「奉納 弘化四年 御宝□□」とある。