Y字路|元荒川右岸沿い
墓守堂をあとに元荒川右岸沿いの道(平方東京線)を川上に向かって歩くとY字路に出る。右に曲ってしばらくすると右手に小さなお堂が見える。
地蔵堂
このお堂は石地蔵を祀る地蔵堂(越谷市向畑1114-3北)。北を向いているので北向き地蔵と呼ばれている。実際は若干、北北西を向いている。
北向地蔵
お堂の中には、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩像が蓮台(れんだい)に乗った姿で安置されている。造立は江戸中期・元文3年(1738)。蓮台の下には台石があり、銘が刻まれているが、外からは確認できない。
この台石の銘について、『新方地区の石仏』加藤幸一(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)によると、「正面(に刻まれている文字)は『元文三午七月吉日』『為 三界万霊 有無縁両等』『向畑村 当誉相全』、右側面は『為先祖川崎村誰』」とある。
藤原様
現在は更地になっているが、かつてこの地蔵堂の裏手には「藤原様」と呼ばれる木の祠があった。「藤原様」について、『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「向畑香取神社」(P15)に次のように記されている。以下引用。
この地蔵堂の裏手の一角に木の祠が置かれているが、この中には下部をセメントで固められた年号不詳の釈迦複合三尊板碑が納められている。この板碑は大正の末期当所から馬の骨などとともに出土したもので、通称『藤原様』と称され、先達の指導のもとに参詣者が群をなしたと伝えられている。おそらくこの板碑に『藤原』の銘があったので藤原様と称されたとみられる。
引用元: 『越谷ふるさと散歩(下)』向畑香取神社
畑道
北向地蔵の先にあるT字路を左折。その先の十字路を右に曲って、畑道(はたけみち)を進むと、杜(もり)の中に向畑の鎮守・香取神社の鳥居が見えてくる。
向畑香取神社
向畑香取神社の住所は越谷市向畑831。入口には、江戸後期・天保13年(1842)の石の幟立(のぼりたて)、右手に天保8年(1837)の敷石建立と刻まれた供養塔がある。
境内
鳥居をくぐった境内は、イチョウやケヤキの大木が生い茂っていて、昼間でも暗く、神域という雰囲気が漂っている。江戸後期・嘉永3年(1850)の御神燈の台石、文政2年(1819)の御神燈一対、明治40年(1907)建碑の記念碑など建てられている。社殿の屋根は銅板葺き(昭和46年〈1971〉再建)。かつては草葺きだった。
小祠
境内と本殿の裏地に、小さな木の祠が六宇(う)見られるが、ご神体が納められているのは二宇しかない。上の写真は「天神宮」と刻まれた石塔が祀られている石祠。もともとは三基の石塔(ご神体)が祀られていたと思われる。
歴史
創建の時期は不明だが、江戸中期には鎮座していたようである。
かつてこの地は、大吉(おおよし)川崎(かわさき)大杉(おおすぎ)大松(おおまつ)船渡(ふなと)の近隣五か村が共同で所有した入会地(いりあいち)だったために、「向こうの畑」と呼ばれたことから「向畑」(むこうはた)という地名になった。その後、この地は川崎村に取り込まれ、江戸中期・元禄8年(1695)の検知のさいに、川崎村から分村したという。
『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)越谷市「向畑香取神社」の項(P1174)に、「向畑香取神社は、向畑村が川崎村から分村したときに、川崎香取神社の分霊を勧進したことは想像に難くない」とあることから、元禄8年の分村のときに、この場所に建てられた、と考えて間違いないだろう。
水神社
向畑香取神社は千蔵院という寺が管理していた。江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』向畑村の項に「香取社 村の鎮守」と記されている。千蔵院は、明治初年の神仏分離後に廃寺となり、千蔵院の境内に祀られていた水神社の石塔は、明治4年に村社となった向畑香取神社の境内に移された。その水神社の石塔は、鳥居をくぐった参道の左手、木の祠の中にある。
「水神宮」文字塔
石塔型式は駒型。江戸後期・文化12年(1815)造立。主銘は「水神宮」、脇銘は「文化十二亥年六月吉日」「向畑村 講中十九人」。「水神宮」文字塔の横にも小さな石塔が置かれているが、劣化が進んで、主銘などは確認できない。二つに割れてしまった石塔の上半分と思われる。
丁字路|大杉公園通り
向畑香取神社をあとに古利根川右岸沿いの道に戻って左に進むと、丁字路に突き当たる。左右に伸びる道は大杉公園通り。左へ行くと新方川、右に行くと古利根川に架かる堂面橋に出る。
向畑観音堂
丁字路を左に曲がると右手に墓地とお堂が見える。ここは向畑観音堂。堂面の観音堂とも呼ばれている。千蔵院と称された寺院の跡地である。この場所にあった水神宮が向畑の香取神社に移された。敷地内には「孝心」と刻まれた文字庚申塔や馬頭観音像供養塔など石仏も多く見られる。向畑観音堂については別記事にまとめてある。
越谷市向畑(むこうばたけ)にある向畑観音堂。堂面の観音堂とも呼ばれている。かつては山王山華光院と称された真言宗の寺院であった。明治14年(1881)に、現在の新方小学校の前身ともいえる向畑学校が、観音堂を校舎に開校した歴史もある。敷地内には「孝心」文字庚申塔や馬頭観音像供養塔など石仏も多く見られる。
堂面橋
丁字路を右に行くと古利根川に架かる堂面橋(どうめんばし)に出る。古利根川の左岸に沿って左右に伸びる道路は越谷野田線。堂面橋を越えると松伏町に入る。信号を左折すると四差路があり、左が春日部方面、直進が野田方面、右に行くと松伏町を抜けて越谷市民球場・総合体育館に出る。
堂面橋ができる前は渡船場だった
堂面橋ができる前は、現在の橋のたもとに「 堂面の渡し 」と呼ばれる渡船場(とせんば)があった。昭和31年(1956)12月に木橋が架せられ、昭和41年(1967)3月に鉄筋コンクリート橋になった。
堂面の渡し|昭和30年の風景
※上の写真は山﨑一男氏提供
上の白黒写真は、堂面橋が架かる一年前、昭和30年(1955)に撮影された堂面の渡しの風景。左端に映っている藁葺き屋根の家は堂面の渡しを経営していた家。ゆったりと流れる古利根川。小さな木船の上で、ほっかぶりをして竹竿を繰る女船頭さん。船に乗っているのは、リヤカーに荷物を積んだ男性と、おかっぱ頭の女の子……。まさに日本の原風景。当時の様子がしのばれる貴重な資料だ。写真の提供を快く承諾してくださったアマチュア写真家の山崎氏には心からお礼申しあげる。
堂面橋を渡って右に行くと、1キロメートルほどで新方橋に戻る――
謝辞
本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、細部にわたって校閲していただいた。また、貴重な資料や写真も提供していただけた。加藤氏には心からお礼申しあげる。