越谷市下間久里にある不動堂の石仏◇出羽三山供養塔◇十一面観音文字塔◇青面金剛文字庚申塔◇弁財天文字塔◇板碑型三猿庚申塔◇千庚申供養塔◇勢至大菩薩文字塔◇百堂巡礼塔――を調査した。かつてここには開演寺という寺があったという歴史もひもとけた。

石仏群

下間久里不動堂の石仏

不動堂の横手に並んでいる石仏群。手前に七基、その裏手には観音像が彫られた石塔と僧侶の墓石などがある。まずは手前に並んでいる石仏を右から順番に見ていく。

出羽三山供養塔

出羽三山供養塔

出羽三山供養塔。石塔型式は山状角型。造立は江戸中期・安永元年(1772)。正面の主銘は、「梵字・アーンク 月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」。最頂部に「日月」が陽刻されている。基礎の正面には「講中」とある。
 
脇銘は、左側面に「天下泰平 国土安全 東叡山御持羽黒山別当代戒光院亮豊」、右側面に「安永元年壬辰十一月吉日」「武州埼玉郡新方領」「下間久里村」と刻まれている。
 
台石の正面には人名が刻まれているが風化が進んでいて判読できない。左側面にも寄進者の名前が刻まれているが読みとれない。かろうじて「大里村」「当所」という文字が読みとれる。「当所」とは「下間久里」のことと思われる。

十一面観音文字塔

十一面観音文字塔

十一面観音文字塔。江戸後期・文政8年(1825)造立。石塔型式は山状角型。正面には十一面観音を表わす梵字「キャ」、「十一面観音」と刻まれている。左側面は「天下泰平国土安全」、右側面には「文政八乙酉正月吉日」「下間久里村」とある。(※1)

※1 石塔の劣化が進んでいて、読みとれない文字もあったので、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏の調査報告「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年改定」(越谷市立図書館所蔵)36頁、80頁と照らし合わせた。

青面金剛文字庚申塔

青面金剛文字庚申塔

青面金剛文字庚申塔。造立は江戸後期・文政8年(1825)。石塔型式は山状角型。正面の最頂部に「日月」が陽刻されていて、中央に大きく「青面金剛」と刻まれている。
 
脇銘は、左側面に「文政八乙正月吉日」「下間久里村」、右側面に「天下泰平国土安全」。石塔の下の基礎の部分には浮き彫りされた「三猿」が確認できる。台石の正面には「村中」とある。
 
石塔は風化が進んでウメノキゴケ(※2)が目立つ。

※2 ウメノキゴケ(梅の樹苔)…古い石仏によく見られる白いまだら模様。白いカビやセメントで補修したようにも見えるが藻類と菌類が共生している地衣類(ちいるい)の一種。コケの仲間ではない。

弁財天文字塔

弁財天文字塔

祠型の石塔は弁財天文字塔。江戸中期・延享4年(1747)造立。祠の正面には「辨財天」と刻まれている。「辨」は「弁」の旧字体。左側面には「延享四丁卯四月吉祥日」、右側面には「武州新方領下間久里邑」「講中」とある。

板碑型三猿庚申塔

板碑型三猿庚申塔

板碑型の三猿庚申塔。江戸前期・寛文5年(1665)造立。主銘は「奉造立石仏者為庚申待講衆中廿六人二世安楽」、脇銘は「寛文五乙巳年十月吉日武州下間久里村」「本願浄□院」「施主」「敬白」(※3)。その下に「三猿」が浮き彫りされている。三猿の下には「蓮華」(れんげ)が陽刻されている。

※3 石塔が古く、判読できない箇所が多かったので、正確を期するために「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年改定」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)36頁、80頁・81頁に従った。

千庚申供養塔

千庚申供養塔

千庚申供養塔。江戸後期・文政4年(1821)造立。石塔型式は駒型。石塔の最頂部に「日月」が陽刻されていて、主銘に「奉納千庚申供養」、脇銘に「文政四巳年願主」「八月吉祥日是心」。最下部に「三猿」が浮き彫りされている。
 
「千庚申」について、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「多ければ多いほど御利益があるとの考え方から生まれたのであろうか。数にものを言わせて庚申の功徳を得ようと『千』を付けている」(※4)と解説している。

※4 「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年改定」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)81頁

勢至大菩薩文字塔

勢至大菩薩文字塔

勢至大菩薩文字塔。江戸中期・宝暦9年(1759)造立。石塔型式は駒型。最頂部に勢至菩薩を表わす梵字「サク」。その下に陽刻された「日月」。中央に「南無勢至大菩薩」と刻まれている。脇銘に「宝暦九己卯」「九月吉祥日」「下間久里」とある。

石塔と墓塔

下間久里不動堂の墓石と石塔

出羽三山供養塔の裏手に、聖観音が浮き彫りされている舟型の石塔と、五基の墓塔が並んでいる。

観音像付き百堂巡礼塔

観音像付き百堂巡礼塔

聖観音が陽刻されているのは百堂巡礼塔。造立は江戸前期・寛文5年(1665)。石塔型式は舟型。正面中央に聖観音菩薩立像が浮き彫りされている。
 
脇銘に「奉造立石仏者為百堂順札(※5)衆中七十一人逆修也本願七郎兵衛」「寛文五乙巳十月吉日武州西新方下間久里村 施主 敬白」とある。

※5 百堂順札の「札」は「礼」の誤字か?

百堂巡礼塔とは

百堂巡礼とは、何人かの人が集まって、百か所のお堂を巡礼して歩くこと。百堂めぐりを達成した記念に建てた石塔を百堂巡礼塔という。百堂供養塔とも呼ばれる。百堂めぐりは、特定の本尊にかぎらず、阿弥陀堂・観音堂・薬師堂・地蔵堂・大師堂・大日堂など、さまざまなお堂を巡拝した。

銘に西新方の文字が見られる

「西新方」の文字

脇銘「武州西新方下間久里村」の中に「西新方」(にしにいがた)の文字が見られる。この「西新方」について、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「間久里地域は、新方領の西部にあたるので、江戸初期は『西新方』と呼ばれていたのであろう」(※5)と述べている。

※4 「平成5・6年度調査<桜井地区の石仏>平成31年改定」加藤幸一(越谷市立図書館所蔵)81頁

西新方の文字がある他の石仏

大里自治会館墓地の阿弥陀如来像付き念仏供養塔

下間久里不動堂から300メートルほど南にある大里自治会館墓地にも、「西新方」の文字が刻まれている阿弥陀如来像付きの念仏供養塔がある(上の写真)。造立は江戸前期・寛文3年(1663)。下間久里不動堂の観音像付き百堂巡礼塔の造立は寛文5年(1665)なので、ほぼ同時期のもの。
 
「間久里地域は、新方領の西部にあたるので、江戸初期は『西新方』と呼ばれていたのであろう」という加藤氏の説を裏付ける史料といえる。

僧侶の墓塔

僧侶の墓塔

僧侶の墓塔。石塔型式は山状角型。江戸中期・明和8年(1771)建立。正面の最頂部に梵字「ア」。その下に「法印良泉不生位」と刻まれている。「法印」は僧位の最上位の称号。両脇に「明和八辛卯天」「六月十三日」とある。
 
梵字「ア」は真言宗の本尊である大日如来を表わし、「不生位」(ふしょうい)は真言宗の僧侶の位号なので、この墓塔は、昔、この場所にあった開演寺(※5)の僧侶の墓かもれしない。開演寺も真言宗の寺だった。

※5 下間久里不動堂は開演寺という廃寺の跡地にある。開演寺については本記事の後半で考察する。

脇銘

脇銘

右側面には「越後國三嶋郡石地町」「西福寺弟子寛織」と刻まれている。「弟子」(ていし)は門人・門弟のこと。

五輪塔

五輪塔

五輪塔。江戸中期・正徳4年(1714)。五輪塔は、「上から空輪(宝珠形)・風輪(半月形)・火輪(三角形)・水輪(円形)・地輪(方形)の五つの部分から成る」(※6)

※6 日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)五輪塔、188頁

地輪の正面に梵字「ア」。は主銘は「堅壽法印」。「法印」は最上位の僧侶に与えられる称号。右側面の脇銘に「正徳四甲午」「八月十六日」とある。
 
江戸時代の中ごろから五輪塔は僧侶の墓として造られるようになった。「ア」は、真言宗の本尊・大日如来を表わす梵字なので、この五輪塔も開演寺の僧侶の墓塔と思われる。

僧侶の墓塔(?)

僧侶の墓塔

この櫛型の石塔は劣化とウメノキゴケに覆われていて年代不詳。銘文も読みとれない。かろうじて最下部に「不生位」(ふしょうい)の文字が、なんとか確認できるので、真言宗の僧侶の墓塔と思われる。この石塔も開演寺の僧侶の墓石かもしれない。

無縫塔(卵塔)

無縫塔(卵塔)

無縫塔(むほうとう)が二基並んでいる。
 
向かって左側の主銘には、梵字「ア」「大法師尊宜不生位」と刻まれている。「大法師」(だいほうし)は、とくにすぐれた僧侶をたたえた尊称。「不生位」とあるので真言宗の僧侶。右側の無縫塔はウメノキゴケに覆われていて銘が読みとれない。最頂部の梵字「ア」がなんとか確認できる。
 
無縫塔は卵塔(らんとう)とも呼ばれる僧侶の墓塔。『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「下間久里不動堂」141頁にも「開演寺の僧の墓石とみられる卵塔墓石が数基置かれている」とあるので、この二基の無縫塔(卵塔)も開演寺の僧侶の墓塔であう。

続いて、かつてこの場所にあった開演寺という寺院について考察する。