越谷市東大沢四丁目(旧・大沢高畑)にある高畑(たかばたけ)稲荷神社の石仏・石塔と境内の風景を現地で撮影した写真とともにお伝えする。
高畑稲荷神社

高畑稲荷神社の創建年代は江戸初期と伝えられ(※1)、江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「稲荷社 真蔵院持」(※2)とある。
「稲荷社、真蔵院(しんぞういん)持ち」とは、稲荷社(高畑稲荷神社)は真蔵院が管理する寺、の意。真蔵院は、かつて日光街道の「大沢宿」にあった修験寺院(山伏の寺)
※1 『埼玉の神社』に「大沢は、江戸初期に開発が進められたと考えられ、その過程で祀られたと思われるのが当社(高畑稲荷神社)である」(※3)との記載がある。
※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大澤町」149頁
※3 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「高畑稲荷神社」1110頁
高畑の地名

このあたり(現・東大沢四丁目付近)は、大沢の中では比較的高い地所であったことから「高畑」(たかばたけ)の名がついた。
大きな集落だったが、江戸初期、日光道中(日光街道)沿いに新しく大沢町(大沢宿)ができたときに、高畑の多くの住民が大沢町に移動したため、ほとんどの屋敷が空き家になってしまい、高畑の屋敷跡は畑地に開発された。
そのためこのあたりは「新田耕地」(しんでんこうち)「高畑新田」(たかばたけしんでん)とも呼ばれた。
稲荷前耕地
また、稲荷神社前に「稲荷前耕地」(とうかまえこうち)という場所があった。「とうか」は、当時、地元の人が「稲荷」(いなり)を「とうか」と呼んでいたことに由来する。
『わたしたちの郷土こしがや』(第一集)によると、「このあたりはとくに寂しいところで、古狐(ふるぎつね)が、往来する人をよくだましたので、人びとはここを『とうかまえ』と呼んで恐れていた」(※4)という。
※4 越谷市役所『越谷の歴史物語(第一集)』越谷市史編さん室(昭和53年8月20日発行)「大沢の地名」32-33頁
それでは、境内の石仏を見ていく。
石仏

調査した石仏は 6基
- 首なし聖観音立像
- 地蔵菩薩立像
- 千手観音菩薩立像
- 文字庚申塔
- 青面金剛像庚申塔
- 地蔵菩薩立像
向かって右手、トタン屋根の鞘堂(さやどう)に二基、向かって左手に、四基の石仏が並んでいる。
首なし聖観音立像

鞘堂に向かって右手、異形の石仏は、首なし聖観音(しょうかんのん)立像。江戸中期・寛延4年(1751)造立(※5)
首なしになってしまったので、あとから肩と首の部分を補修した(肩から首の部分にかぶせものをした)ものと思われる。
異体な造形から『越谷ふるさと散歩(下)』には「なにか伝説を秘めた石仏にもみえる」(※6)とある。
※5 台石に「寛延四辛未」「八月吉日」と刻まれているので、寛延4年(1751)造立とした。なお 1751年は、宝暦元年(辛未=かのと・ひつじ)でもある。
※6 越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「鷺後用水沿いの神社」105頁
地蔵菩薩立像

鞘堂に向かって左側は地蔵菩薩立像。江戸中期・享保10年(1725)造立。
台石正面に、地蔵菩薩を表わす梵字「カ」、「奉造立地蔵尊」「享保十乙巳年」「十一月吉日」、右側面(向かって左側)に「同行十八人」の銘が確認できる。
地蔵尊の下(台石の上)にある蓮台(れんだい)は、経年具合が異なっているので、あとから取り付けたものだろう。
続いて、鞘堂の隣、四基並んでいる石仏を向かって右端から順番に見ていく。
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