埼玉県越谷市大松の清浄院(しょうじょういん)にある開山塚(蛇塚)の歴史と伝説などを写真とともにお伝えする。

清浄院

清浄院|越谷市大松

清浄院は、室町時代の中期、賢真上人(けんしんしょうにん)の開山と伝えられ、幾多の伝説を残する古刹。宗派は浄土宗。正式名称は、栄広山浄土寺清浄院という。

開山塚

清浄院開山塚

本堂の裏手に、開山塚(かいざんづか)と呼ばれる小高い丘状の塚がある。

歴史

清浄院の開山塚

開山塚は、高さ 1.8メートル、東西 13.5メートル、南北 13メートルの平面円形の塚で、清浄院の開山僧・賢真上人の墳墓であるとも伝えられている。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』によると、「この塚から鎌倉中期・嘉禄元年(1225)在銘の板碑が出土した」(※1)という。
 
「嘉禄元年」の年号銘が確かならば、日本最古級の板碑となるが、残念ながら、板碑の所在は現在のところ不明。

※1 「開山賢真、[中略]当寺の東に開山塚と云あり、そこより掘出せし古碑に、嘉禄元年の文字見えたり、是起立の人の碑ならんと云」(出典)『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)181頁

発掘調査

清浄院開山塚|裏手

昭和49年(1975)、開山塚の発掘調査が行なわれたが、塚の中央部から人間の歯4本・唐銭1枚・鉄クギが発見されただけで、そのほか手ががりになるものは出土しなかった。
 
この塚は、砂土で作られたものだったので、風化によって、埋葬者の姿や形はことごとく土に化していたという。
 
埋葬者はだれであるかは識別できなかったが、「開山塚」と呼ばれていることから、清浄院の開山僧・賢真上人の墓であるとも考えられている。
 
この塚は、昭和52年(1977)、「清浄院開山塚」(しょうじょういん かいざんづか)の名で、越谷市の文化財に指定された。

蛇塚伝説

蛇塚|清浄院

清浄院の開山塚は「蛇塚」(へびづか)とも呼ばれるが、その由来について、次のような伝説が残されている。

室町時代の六代将軍・足利義教(あしかが よしのり)のとき、結城合戦(ゆうぎがっせん)で奮戦し、討ち死にした、下総国野木の領主・野木秀俊の妻は、子の松寿丸(しょうじゅまる)と乳母(うば)を連れて、実家である大川戸(おおかわど)氏に落ちのびた。
 
しかし、将軍義教が大川戸一族に残党狩りの追っ手を差し向けるとの噂を聞いた松寿丸の母は、松寿丸を抱いて(清浄院の山門東にあった)湖に身投げをした。乳母もそのあとを追って入水(じゅすい)。室町時代・嘉吉元年(1441)正月21日のことである。
 
三人の霊は三頭一尾の毒蛇(大蛇)となって湖辺(こへん)をただよい、人々を恐れさせた。
 
6年後(文安4年〈1447〉)の春、清浄院の開山僧・賢真上人が、湖のほとりで、桜の花を愛でていると、ひとりの幽艶(ゆうえん)な女性(秀俊の妻の霊)が現われ、わたしたち三人のために念仏供養をしてほしいと訴えた。
 
哀れに思った賢真上人は、村人を集めて大念仏会(だいねんぶつえ)を催した。
 
六日後の真夜中、台地が大きな音とともに揺れ動き、湖は小高い山になった。人々はこの小山を「蛇塚」(へびづか)、あるいは「開山塚」(かいざんづか)と呼んで、賢真上人の徳をたたえたという。

※2 上記の伝説は、加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)47頁および『越谷の歴史物語(第二集)』越谷市史編さん室(昭和55年1月15日発行)「栄広山由緒」7-9頁を元に作成した。

景観

開山塚の景観

開山塚は清浄院本堂の裏手にある。西側100メートル先には古利根川が流れている。この場所は、かつては竹や雑木で覆われ、戦時中は防空壕にも利用されたそうだが、今は整備されて、文化財の名にふさわしい景観になっている。

正面

開山塚の石塔と板碑

塚の正面手前に石塔が一基、奥に板碑が置かれている。

墓塔

墓塔

手前の石塔は、江戸中期・正徳3年(1716)銘のある墓塔。石塔型式は舟型。聖観音菩薩立像が浮き彫りされている。
 
この墓塔は、開山塚を整備したときに、無縁塚からここに移された。

板碑

板碑

奥に置かれている板碑は年代不詳。上部に阿弥陀如来を表わす梵字「キリーク」が刻まれている。
 
この板碑は、『新編武蔵風土記稿』にある「この塚から出土した鎌倉中期・嘉禄元年(1225)在銘の板碑」ではない。寺にあったものを塚が整備されたときに、ここに置かれたもの。

かつての景観

清浄院開山塚|昭和~平成

越谷市デジタルアーカイブで、昭和40年(1965年)から平成12年(2000年)までに撮影された清浄院開山塚の写真が公開されている。貴重な写真なので、時系列に並べて、見ていく。

越谷市デジタルアーカイブとは

越谷市デジタルアーカイブとは、越谷市内の古い写真・地図・古文書など、越谷市が所有する多様な資料を無料で検索・閲覧できるWebサイト。2023年8月に越谷市公式ホームページ内に公開された。

越谷市デジタルアーカイブの URL を以下に示す。
https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/

昭和40年ごろ

清浄院開山塚|昭和40年ごろ

昭和40年(1965年)ごろの開山塚は、手入れも行き届いていなかったのて、塚は竹藪や雑木林におおわれていた。

昭和43年

清浄院開山塚|昭和43年

昭和43年(1968年)の開山塚。竹林の竹に花が咲いて、すべて枯れてしまい、取り払われた。竹林が伐採されたので、開山塚が姿を現わした。

昭和54年

清浄院開山塚|昭和54年

昭和54年(1979年)9月に撮影された開山塚。「平坦な砂地に坊主のような山だけが残された感じ」(※3)になっている。
 
清浄院開山塚は、この写真が撮影された 2年前、昭和52年(1977年)1月25日に越谷市の史跡に指定された。塚の前に、越谷市指定文化財(史跡)であることを示す説明板が立てられている。

※3 越谷市史編さん室編(1980)『越谷ふるさと散歩(下)』「開山塚」30頁

昭和62年

清浄院開山塚|昭和62年

昭和62年(1987年)の開山塚。坊主山(ぽうず)だった塚のふもとを囲むように樹木が植えられた。木にはピンク色の花が咲いている。

平成11年

清浄院開山塚|平成11年

平成11年(1999年)に撮影された開山塚。ふもとの樹木はすべて伐採され、正面手前に木が一本植えられている。昭和53年(1978年)に設置された「清浄院開山塚」の説明板も(21年たって)ずいぶん古びてしまった。
 
開山塚の裏手も整地され、新しい墓が、立ち始めている。

平成12年

清浄院開山塚|平成12年

平成12年(2000年)。昨年(1999年)の景観と同じ。木が少し大きくなっているようにも見える。

現在|令和6年

清浄院開山塚|令和6年

現在の開山塚。令和6年(2024年)11月30日撮影。
 
塚のふもとは石垣で周囲が固められ、中腹と頂上にも木が植えられた。手前の松の巨木はりっぱ。松のうしろにある木は平成11年(1999年)に撮影された写真にも写っている。ずいぶん大きくなった。
 
現在の説明板は、平成13年(2001年)に取り替えられたもの。
 
59年前、昭和40年(1965年)ごろは竹藪でおおわれて塚が見えなかった風景とは一変。越谷市の指定文化財の名に恥じない美しい景観になった。

場所

清浄院|越谷市大松

清浄院の住所は埼玉県越谷市大松60。場所は、大杉公園通りから川崎神社の脇を北に曲がって300メートル( 地図 )。開山塚は本堂の裏手にある。

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
『越谷市史(第三巻)』(資料一)越谷市役所(昭和48年3月30日発行)
『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『越谷の歴史物語(第二集)』越谷市史編さん室(昭和55年1月15日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)