旧千疋村
旧・埼玉郡八條領千疋村。現在の越谷市東町五丁目
庄次郎池跡
武蔵野線のガードを抜けて150メートルほど歩くと、東町くぬぎ通りにぶつかる。前方に見える赤いアーチの橋は新中川水管橋。この道(東町くぬぎ通り)は、昔の中川(右岸側)の土手道。道路の向こう側の土地は、地盤が低くなっているが、かつてその一帯は、庄次郎池(しょうじろういけ)という大きな池だった。
薬師堂跡地
東町くぬぎ通りをそのまま道なりに南へ300メートルほど進んだT字路の角地に、小さなお堂がある。場所はトマト農園の前。越谷市東町五丁目。ここにはかつて薬師堂があった。
薬師如来座像
お堂の中には石造の薬師如来座像が安置されている。
薬師堂跡地を離れ南西に歩を進める。
東養寺墓地|千疋南農村センター
10時35分。東養寺墓地(千疋南農村センター)に到着。越谷市東町5-242。江戸時代まで東養寺という寺だったが、明治維新後に廃寺となった。現在は千疋南農村センターになっている。境内は東養寺墓地として管理されている。
石塔
墓地内に入った右手には江戸中期から後期にかけて造られた六基の石塔が並んでいる。①江戸後期・弘化2年(1845)の地蔵菩薩像②江戸中期・宝暦4年(1754)の六十六部廻国塔③江戸中期・明和7年(1770)の六十六部供養塔――など。
石仏・石塔
別の場所に、八基の石仏や石塔が並んでいる。左から
①青面金剛像庚申塔…江戸中期・明和2年(1765)
②青面金剛像庚申塔…江戸中期・宝暦8年(1758)
③地蔵菩薩像…江戸中期・明和4年(1767)
④宝篋印塔…江戸中期・正徳2年(1712)
⑤青面金剛像庚申塔…江戸中期・元禄7年(1694)
⑥普門品供養塔…江戸末期・安政2年(1855)
⑦光明真言曼陀羅塔…江戸前期・寛文12年(1672)
⑧「青面金剛尊」文字庚申塔…江戸後期・寛政4年(1791)
勢至堂
入口付近の六地蔵の隣にある堂宇の中央は勢至堂。勢至堂の中には、安土桃山時代の天正3年(1575)在銘の二十一仏板碑が納められている。
比叡山に奉祀する「上七社」「中七社」「下七社」の山王二十一社の本地仏のことで、平安時代に天台宗の信徒たちによって唐の天台山の地主山王にならい比叡山の守護神として祀られたことに始まると伝えられている。このような山王信仰を表わした二十一仏板碑は、現在越谷市内で八基(※5)確認されている。(「案内板」より抜粋)
※5 現在、越谷市内の二十一仏板碑は九基確認されている。
二十一仏板碑
二十一仏板碑の高さは、1メートル32センチメートル、厚さ5センチメートル。このように完全な形で現存しているのはとても珍しく、貴重な板碑である。二十一仏板碑は「二十一仏板石塔婆」(にじゅういちぶつばんせきとうば)とも呼ばれる。
移動|伊南理神社へ
続いて向かったのは13番目の見学先となる伊南理神社(いなりじんじゃ)。東養寺墓地の横道を隔てた小高い杜に鎮座している。
伊南理神社
10時45分。千疋村の鎮守・伊南理神社に到着。住所は越谷市東町5-251。石段の脇に「伊南理神社」(いなりじんじゃ)と朱塗りで刻まれた社標。石段をのぼったところに「伊南理大神」と記された額を掲げた朱塗りの両部鳥居(※6)が立っている。
※6 両部鳥居(りょうぶとりい)…左右に副柱を配した鳥居。
境内の風景
鳥居を抜けると参道の両脇に一対の御神燈。百度石も置かれている。左手の空き地には「塞神塔」「水神宮」「天王宮」と刻まれた石祠が並べられている。左手の奥に「浅間神社」と刻まれた自然石の石塔がある。ここにはかつて富士塚があった。
参道を進むと拝殿の前には御手洗石と石の狐像が台石の上に載せられて一対置かれている。社殿の左手には「天満天神宮」「厳島大神宮」「稲荷明神宮」「疱瘡□」と刻まれた石祠や力石などが置かれている。
伊豆石
案内役の秦野氏から社殿の基壇に使われている石についての解説があった。
伊南理神社でも本殿の基壇に伊豆石が使われています。拝殿の基壇に使われているのは大谷石です。
千疋屋と越谷
今回の史跡巡りのテーマは「千疋屋のふるさとを歩く」。千疋屋(せんびきや)は言わずと知れた東京日本橋の老舗高級果物店。千疋屋と越谷とはどんな関係があるのか。越谷市郷土研究会の渡邊会長が話をしてくれた。
170年以上の歴史をもつ千疋屋。その屋号は越谷市の地名に由来しています。現在の越谷市東町三丁目。それが千疋屋の創業者である大島弁蔵の出身地・千疋村です。弁蔵は越谷が桃の産地だったことから果物や農産物を船に載せて江戸へ運び、日本橋に店をかまえ、出身地の名前をとって「千疋屋」の屋号で商売を始めました。江戸後期・天保5年(1934)のことです。
千疋屋の社長ら越谷を訪問
また「平成23年(2011)に、千疋屋総本店の社長以下16人の役員がバスに乗って越谷市を訪問。郷土研究会のメンバーの案内で、旧千疋村(現・東町三丁目)を巡り、弁蔵が住んでいたと考えられる場所や江戸へ果物が船積みされた中川の船着場跡などを視察した」という話を渡邊会長が聞かせてくれた。
雨脚が強くなってきたので拝殿の軒下でしばし雨宿り。
移動|新中川水管橋へ
11時。雨が小降りになってきた。伊南理神社をあとに東町くぬぎ通りを越え、畑の間の小道を通って新中川水管橋に向かう。この道は江戸時代からあった古道。
古道|下妻街道(江戸往来)跡
新中川水管橋に向かう途中、四つ角にぶつかった。中川に沿って続いている道もかつての古道だ。案内役の秦野氏から解説があった。
中川に沿って続いているこの道は、江戸時代は「江戸往来」と呼ばれ、江戸(東京)と下妻(茨城県)に通じていました。日光街道ができる前の江戸時代以前からある奥州古道(下妻街道)と思われます。
新中川水管橋
11時10分。新中川水管橋(しんなかがわすいかんきょう)に到着。中川を挟んで越谷市と吉川市をつないでいる。真っ赤なアーチが目印。水管橋とは水道管が川や鉄道などを横断するための橋のこと。歩道橋が併設されているので歩いて渡ることができる。自転車での通行も可能。
木売の渡し跡
新中川水管橋を渡る。上流側の前方に見えるのは武蔵野線の中川橋梁。その昔、中川橋梁付近に、千疋村(現・越谷市)と、対岸の木売村(現・吉川市)の人々や物資を船で運ぶ「木売の渡し」(きうりのわたし)と呼ばれる渡し場があった。
千疋村の中島跡
新中川水管橋を渡り終え吉川市に入る。かつて、中川の千疋村側(越谷側)に存在した「中島」(中州)について、案内役の秦野氏から解説があった。
現在は河川改修によって消滅してしまいましたが、吉越橋の南から武蔵野線の中川橋梁にかけての中川に、越谷市近辺では最大級の中島(中州)がありました。江戸後期・天保7年(1836)の『千疋村絵図』にも「千疋村中嶋」の文字が見られます。