石仏調査|大道東部
八坂神社跡
八坂神社跡|2025年5月14日撮影
八坂神社(やさかじんじゃ)跡着。八坂神社の跡地は現在、更地になっている。敷地の所有者に許可を得たうえで中に入って調査を行なった。
大道八坂神社
大道の八坂神社は、個人持ちの神社だった。京都の八坂神社とは直接的な関係はない。
『埼玉の神社』によると、「八坂神社は、Y家で祀っている個人持ちの神社である。Y家は、神仏分離によって(明治初期に)廃寺になった天王山正福院という真言宗の寺院の後裔(こうえい)であり、復飾後は昭和18年(1933年)ごろまで神職を務めていた」(※2)という。
※2 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「大道神社」1143頁
三峯様脇|二基の石塔
三峯様(みつみねさま)と呼ばれる小社の脇に、二基の石塔が置かれている。
天神塔
向かって左側は天神塔。江戸後期・天明3年(1783)造塔。石塔型式は祠型。正面に「天満大自在天神」と刻まれている。
左側面
左側面(向かって右側)の銘は「天明三 癸卯 正月吉日」
右側面
右側面(向かって左側)には「大道村 講中」とある。
如来荒神塔
向かって右側の石塔は、如来荒神塔。江戸中期・明和7年(1770)造塔。石塔型式は祠型。正面中央に「如来荒神宮」と刻まれている。
左側面
左側面の銘は「明和七 庚寅 三月吉日」
右側面
右側面は「□仙造立之」という銘が確認できる。
正福院跡|墓地
敷地の一画は墓地になっている。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この敷地を管理する「Y家には江戸時代に本尊が阿弥陀如来の真言宗の寺院『天王山正福院』(てんのうざん しょうふくいん)が置かれていたが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となった」(※3)という。
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』には「正福院 真義真言宗、末田村金剛院末、天王山と号す、本尊阿弥陀なり」(※4)とある。
墓地のあるあたりが正福院だったと思われる。
※3 加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・10年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館所蔵)70頁
※4 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大道村」145頁
聖観音塔
墓地の片隅に聖観音塔がある。江戸中期・元禄16年(1703)造塔。石塔型式は舟型。
最頂部に聖観音(しょうかんのん)を表わす梵字「サ」。中央に浮き彫りされた聖観音立像。脇銘は「権大僧都法印秀翁」「元禄十六 癸未 十二月廿日」
牛頭観音塔
墓地の脇、榊の下に建っている石塔は、牛頭観音塔(ぎゅうとうかんのんとう)。昭和8年(1933)造塔。石塔型式は駒型。正面の主銘は「牛頭観世音」。牛頭観音とは、牛の供養をするために建てられた供養塔。
右側面
右側面(向かって左側)には「昭和八年九月」の銘と、寄進者名が刻まれている。
個人宅横|青面金剛像庚申塔
個人宅の横に青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞう こうしんとう)が一基、置かれている。
造塔は江戸中期・元文5年(1740)。石塔型式は笠付角型。正面の最頂部に、瑞雲に乗った日月。中央に邪鬼を踏まえた青面金剛像。最下部に三猿。
昔は墓地の近くにあった
家の人の話によると、「昔は墓地の近くにあったが、15年ほど前に、ここに移した」とのこと。
青面金剛
青面金剛は顔がひとつで腕が六本。持物は、左上手に法輪、左中手に人身(ショケラ)、左下手に弓。右上手に三叉鉾(さんさぼこ)、右中手に宝鈴(ほうれい)、右下手に矢。
左側面
左側面(向かって右側)には「奉供養大道村中」と刻まれている。台石の左側面には「牛込 石屋四郎右衛門」と刻まれていた。
右側面
右側面(向かって左側)には「元文五 庚申 年」とある。
案内してくれた家の方にお礼を言って、次の見学先に向かった。