石仏調査|大道西部
大道香取神社
10時50分。大道香取神社に到着。
創建年代は、つまびらかではないが、江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に、「香取社 村の鎮守なり、帰命院(きみょういん)の持」(※6)とある。帰命院は、明治7年(1874)に廃寺となっている。
※6 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大道村」145頁
石塔群
社殿の脇にある境内社の横に五基の石塔が並んでいる。この石塔群を調べた。
四基の庚申塔
向かって右の四基は庚申塔。「あれ? 一基増えてる」「二か月前は三基だった庚申塔が四基になってる」
下見のときは
(撮影年月日)2025年3月9日
2か月前、2025年3月9日、下見に来たときには、庚申塔は三基(上の写真)だった。それが四基になっている。おかしいな…。
追加された庚申塔
3月の下見のときに撮影した写真を確認したところ、向かって右端にある庚申塔(上の写真)が、最近、ここに移されてきたようだ。
境内を掃除していた男性にたずねたところ、「(いちばん右端の庚申塔は)つい先月、ここから100メートルほど南の道ばたにあったのをここに運んできた」と、教えてくださった。
以前の場所
(撮影年月日)2025年4月10日
思い出した。この庚申塔は、先月、二回目の下見のときに、その道ばたで確認している(上の写真)。そこは、後半に立ち寄るので、そのときにお伝えする。
三基だった庚申塔が四基に増えていた謎が解明したところで、右端から順番に見ていく。
道標付き文字庚申塔
右端は、2025年4月にここに移された道標付き文字庚申塔。江戸後期・天保4年(1833)造塔。石塔型式は山状角柱型。主銘は「庚申塔」
側面には「北のミち」(北は野道)「東まくり」(東は間久里)「南いわつき」(南は岩槻)の銘が刻まれていて、道しるべになっている。
青面金剛像庚申塔
右から二番目は青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)庚申塔。
前述したが、この青面金剛像庚申塔は、上手組香取社から、ここに移された。
造立は、江戸後期・文政3年(1820)。石塔型式は、山状角柱型。正面中央に「青面金剛像」が浮き彫りされている。
猿田彦文字庚申塔
右から三番目は猿田彦文字庚申塔。江戸後期・文化12年(1815)造塔。石塔型式は山状角柱型。主銘は「猿田彦大神」。最頂部の両端に、瑞雲に乗った日月、台石には三猿が陽刻されている。
文字庚申塔
右から四番目は文字庚申塔。江戸後期・文化3年(1806)造塔。石塔型式は山状角柱型。主銘は「庚申」
石祠
向かって左端は石祠(せきし)。主尊、年代ともに不明。
前半の調査終了
11時。大道西部をめぐった石仏調査の前半はこれで終了。大道香取神社をあとに、後半の調査に向かった。後半は大道東部。
後半(大道東部)の様子は別記事にしてある。以下の記事参照。
石仏調査|大道東部
2025年5月14日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは、越谷市大道の西部と東部(旧大道村)の石仏・石塔。本記事では調査後半(大道東部)の様子をお伝えする。巡った場所は八坂神社跡や正福院跡など…。
本記事の写真について
本記事の写真は、2025年5月14日に行なわれた文化財パトロールで撮影したものだが、鮮明に撮れなかったものについては、2025年3月9日と4月10日の下見のときに撮影した写真を使った。
参考文献
調査にあたって、石仏や石塔の劣化や風化によって碑文が読みにくかったり、判読できない箇所も多々あった。正確を期するために、関係書籍や調査報告書と照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。
加藤幸一「大袋地区石仏」平成9・11年度調査/平成27年12月改訂(越谷市立図書館蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
財団法人 埼玉県佛教会 監修『埼玉のお寺』千秋社(2001年10月15日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)