2025年5月14日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは、越谷市大道の西部と東部(旧大道村)の石仏・石塔。本記事では調査前半(大道西部)の様子をお伝えする。巡った場所は大道香取神社や大日堂跡など…。

文化財パトロール|概要

文化財パトロール

NPO法人・越谷市郷土研究会では、2005年から毎年、越谷市内の石仏や石塔の現状調査(文化財パトロール)を実施している。今年度(2025年度)は大袋地区南部。大袋地区南部を六つの区域に分け、五、六人で編成された班ごとに受け持ちの区域を調べた。

石仏調査|大道西部

説明

今回、私が配属されたのは大道(旧・大道村)の西部と東部。調査員は 6人。起点はカスミ越谷大袋店。班長の森田氏が、本日の調査箇所を説明。配布された資料で、前半(大道西部)と後半(大道東部)の行程を確認した。

集合写真

出発前に集合写真を撮った。ボクが撮影したのでボクは写っていない。
 
午前10時。カスミ越谷大袋店をあとに大袋西口通りの交差点へ

大袋西口通り

大袋西口通り周辺

起点のカスミ越谷大袋店の前を通っている道路は大袋西口通り(上の写真)
 
このあたりは、平成8年(1996年)からはじまった「西大袋土地区画整理事業」によって、町並みが一変した。大きく変貌したので、以前の面影は見られない。大袋西口通りもかつてはなかった。

昭和54年の大道

「西大袋土地区画整理事業」が始まる前の大道は、のどかな農村地帯だった。昭和54年(1979年)5月に撮影された大道の風景写真が越谷市デジタルアーカイブ(※1)で公開されているので二枚、転載する。

(※1)越谷市デジタルアーカイブとは

越谷市内の古い写真・地図・古文書など、越谷市が所有する多様な資料を無料で検索・閲覧できるWebサイト。2023年8月に越谷市公式ホームページ内に公開された。

越谷市デジタルアーカイブの URL を以下に示す。
https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/

大道の村道|昭和54年

(出典)越谷市デジタルアーカイブ( 大道の村道

大道の農道|昭和54年

(出典)越谷市デジタルアーカイブ( 大道の農道

46年前、昭和54年(1979年)の大道は、こんな風景だった。

令和7年(2025年)に戻って、最初の調査地点へ。交差点を渡って、大袋西口通りを元荒川に向かって進む。

馬頭観音塔跡

※馬頭観音塔跡(黄色い星印)

100メートルほど歩くと、丁字路にぶつかる。大袋西口通りができる前、このあたりは田園地帯で、丁字路の角地あたりに、江戸後期・天保15年(1844)造塔の馬頭観音文字塔があった(上の写真の黄色い星印)。今は見あたらない。区画整備のときに、処分されたものと思われる。

用水路跡

※用水路跡(黄色い線)

馬頭観音文字塔があった付近には用水路が流れていた。
 
流路は、現在の丁字路からファッションセンターしまむら大袋店の裏側を通って東南東へ(上の写真の黄色い線)。用水路も区画整備のときに埋め立てられて消滅した。
 
田園地帯を流れる用水路脇に建っていた馬頭観音塔……。当時の風景を思い浮かべた。

移動

大袋西口通りを元荒川に向かって直進。前方に見える樹木の向こうは元荒川。丁字路(信号)にぶつかる。左右を通っているのは大野島越谷線。丁字路(信号)を右折。

大野島越谷線|地蔵墓跡

大野島越谷線|大道と三野宮の境界

以前、大野島越谷線の路傍(大道と三野宮の境界)に、地蔵墓が建っていたが(上の写真の電柱のななめうしろあたり)、区画整備にともなって、200メートルほど先にある一乗院(いちじょういん)の無縁塚に移された。
 
移された地蔵墓を見に一乗院へ向かった。

一乗院

一乗院|越谷市三野宮

10時20分。一乗院着。一乗院は、鎌倉中期・元仁(げんにん)元年(1224)源頼朝の正妻・北条政子の建立と伝えられている真言宗の古刹。

無縁塚

無縁墓

境内の一画に無縁塚があるが、大野島越谷線の路傍にあった地蔵墓は、この無縁塚に移された。

地蔵墓

地蔵墓

上の写真が、その地蔵墓。
 
両手で宝珠を持っている地蔵菩薩が陽刻されている男児二人の墓塔だ。石塔型式は舟型。江戸中期・安永5年(1776)建立。地蔵菩薩像の両脇に「幻空童子」(安永五申五月廿八日)「秋巖童子」(安永五申七月廿九日)と刻まれている。
 
大野島越谷線の脇で、排気ガスを吸っているよりも、この場所に移されてよかったのではないか。
 
一乗院をあとに、来た道(大野島越谷線)を戻る。

旧村境