2021年5月10日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは越谷市南荻島の出津地区と呼ばれる文教大学周辺の社寺と石仏。五社稲荷神社や玉泉院のほか墓地や路傍にある庚申塔・馬頭観音供養塔・川水神石塔・光明真言読誦供養塔・大乗妙典六十六部日本廻國塔など八箇所・24基を巡った。

石仏パトロール|概要

NPO法人・越谷市郷土研究会では、毎年、越谷市内にある石仏の現状調査(文化財パトロール)をしている。今年度(令和3年度)は荻島地区。荻島地区を6エリアに分け、各エリア三、四人のメンバーで受け持ちの区域をグループごとに巡回した。

石仏調査開始

センチュリー第5駐車場|越谷市南荻島

今回、私が配属されたのは文教大学周辺のグループ。メンバーはリーダー一人、調査員三人、計四人。13時40分。越谷駅東口で待ち合わせ。リーダーが車で現地までメンバーを送ってくれた。13時50分。南荻島にあるセンチュリー第5駐車場(コインパーキング)に到着。車を駐めて石仏調査開始。一番目のチェックポイントに向かう。

路傍|駐車場脇

路傍|南荻島87東

センチュリー第5駐車場を出て道路を南へ250メートルほど進む。前方右手のマンションは藤和シティコープ北越谷。道路に面した駐車場の角地(フェンス際)に庚申塔が一基、ぽつんと置かれている。(上の写真の黄色い▲印)

徳川家康もこの道を通った!?

後日、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏から「この通りは江戸時代から既にある古道で、元荒川の右岸の高土手の道である。東側は出津、西側は堤根の地域である。元荒川の洪水をここで止めた。北に向かうと元荒川にぶつかり、草加バイパスを越えて元荒川沿いに進む岩槻道であった。家康も岩槻城と越谷御殿を行き来するときに使われた古道と推測する」という話をうかがった。

文字庚申塔|天保12年

文字庚申塔|天保12年

石塔の型式は兜巾(ときん)型。江戸後期・天保12年(1841)造立。正面の最頂部に「日月」が陽刻されていて、中央に「庚申塔」と刻まれている。左側面には「天保十二丑年五月吉日、右側面には「会田氏」とある。

移動|越谷岩槻線

堤根バス停

文字庚申塔をあとに道路を南へ50メートル進む。文教大堤通りと越谷岩槻線が交わる信号に出る。信号を右折。越谷岩槻線(埼玉県道48号)を草加バイパス方面に歩く。朝日バス「堤根」(つつみね)バス停を過ぎ、80メートルほど歩いて左折。住宅地に入る。

個人墓地

個人墓地

二番目のチェックポイントに着く。この墓地は個人墓地。先祖代々の墓標が置かれている。敷地の奥には江戸中期から後期の墓標が17基まとめられている。石塔の型式は舟型・板碑型・櫛型。如意輪観音坐像と地蔵菩薩立像が浮き彫りされた墓標も見られる。
 
敷地の中央に先祖代々の墓があり、その横に墓標が三基、縦に並んでいる。一番前にある墓標には梵字で書かれた光明真言曼陀羅(こうみょうしんごんまんだら)が刻まれている。

光明真言曼陀羅塔

光明真言曼陀羅塔

石塔型式は駒型。江戸中期・元祿12年(1699)造立。正面の最頂部に、梵字で光明真言曼陀羅(※1)が描かれ、その下に「松林妙壽禅定尼」と刻まれている。脇銘は「元禄十二己卯天」「八月初五日」とある。「初五日」とは「五日」のこと。

※1 光明真言曼荼羅(こうみょうしんごんまんだら)とは、真言宗のお経・光明真言(23文字)をすべて梵字で象徴的に描いた図絵のこと。この光明真言曼陀羅塔には、大きな円(月輪=がちりん)が描かれた中心部分に大日如来の真言「ア・ビ・ラ・ウーン・ケン」五文字が十字に配され、円の内側に沿って光明真言が時計回りに描かれている。

墓地内で素敵な顔の仏さま三体を写真に収めた。

聖観音

聖観音

如意輪観音

如意輪観音

如意輪観音

地蔵菩薩

移動|文教大堤通り

文教大堤通り

個人墓地の調査を終え、越谷流山線に戻って右折。信号を超え、元荒川左岸沿いの文教大堤通りを歩く。

大房村の馬捨て場跡|元荒川

大房村の馬捨て場跡|元荒川

文教大堤通りから元荒川を望む。川の向かいは北越谷(旧大房村)。左手に北越谷小学校の校舎が見える。曲流している内側(左岸側)の河川敷は、かつて大房村の馬捨て場だった。また江戸時代には大房処仕置場と呼ばれた仕置き場もあった。

板碑群が出土した

昭和47年(1972)6月、曲流地点の川底から室町中期の板碑が大量に見つかった。『越谷ふるさと散歩(上)』(※2)に「この曲流地点の川の中から康正3年(1457)、寛正2年(1461)、応仁3年(1469)、文明2年(1470)在銘のものなど、破片を含めると三十数基の板碑が出土した」とある。

※2 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「出津の板碑と神明下最勝院跡」pp172-174

板碑群が出土した経緯

板碑群が出土した経緯について、加藤氏は「昭和47年6月17日の夕方近く、神明町との境にある南荻島農協倉庫(現在は住宅地に変わっている)前の中州(現在はその中州はない)から、桃木源之助氏によって大量の板碑が偶然にも発見された」と述べている。詳細は加藤幸一(1889)「元荒川(南荻島)出土の板碑群」を参照。
 
「元荒川(南荻島)出土の板碑群」(NPO法人越谷市郷土研究会 研究報告 加藤幸一作品集)
http://koshigayahistory.org/196.pdf

文教大堤通り|文教大学南西角地

文教大堤通り|文教大学南西角地

文教大堤通りを元荒川の左岸に沿って歩く。正面前方に赤い屋根の小さな祠が見えてきた(上の写真の黄色い▲印)。祠の後方にある白い建物は文教大学(越谷キャンパス)。

水神宮|五社稲荷神社参道入口

14時10分。三番目のチェックポイント・水神宮に到着。場所は、文教大堤通り(元荒川土手左岸)と五社稲荷神社の参道入口の交差地点。文教大学の南西端。赤いトタン屋根の祠の中に新しい石塔と古い石塔が前後に置かれている。

水神宮文字塔

水神宮文字塔

手前の新しい石碑は自然石に「水神宮」と刻まれている。造立年月日などは確認できない。調査員のひとりが、かがんで石塔の裏側をのぞいてみたところ「この場所にあった水神宮(川水神)の石塔が風化によって朽ち果ててきたので、平成6年(1994)10月に文教大学が新しい水神宮塔を建立して奉納した」ことが刻まれている銘文が確認された。

川水神(かわすいじん)文字塔

川水神文字塔

なおもともとこの場所にあった古い水神塔は、新しい石塔のうしろに置かれている。破損が著しく、主銘は読みとれないが、かろうじて、最下部の「神」の文字だけが、なんとか確認できる。
 
この石塔について、『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「出津の板碑と神明下最勝院跡」(p172)に「天保3年(1832)の『川水神』と刻まれた石塔が取り残されたように立てられている」とある。
 
よって、この古い石塔は、江戸後期・天保3年(1832)に造立された「川水神」文字塔であることが分かる。風化と劣化が進んだために、新しい自然石の文字塔が代わりに建てられ、うしろに退いた。いわば隠居の身か。

稲荷大明神(?)文字塔|一部

稲荷大明神文字塔の一部

新しい石塔のうしろ、川水神文字塔の横に、駒型の石塔の上の部分だけが置かれている。「稲」の文字が刻まれていることから、「稲荷大明神」と刻まれていた石塔が割れてしまって、最頂部だけが保存されていると思われる。

大小二基の石塔|五社稲荷神社参道入口

道しるべ二基|五社稲荷神社参道入口

参道入口に向かって左手に大小二基の石塔がある。

道標付き「五社稲荷神社」標識石塔

社号標

大きいほうは、道しるべを兼ねた五社稲荷神社の標識石塔。大正6年(1917)12月15日建立。正面の主銘は「指定村社 五社稲荷神社」。右側面は「右越ヶ谷二十町 東岩槻二里」「堤根組青年会」とある。裏面には「大正六年十二月十五日 建設」の銘と、賛助者(矢部長治ほか5人)、発起者(会田浅吉ほか20人)、発願主任(大熊孫兵衛)の名前が刻まれている。

「御祓連中」文字塔|年代不詳

道しるべ

隣の小さい年代不詳の石塔のほうは、正面には「御祓連中 願主 内藤久蔵」、右側面には「越ヶ谷 石工 長兵ヱ」と刻まれている。

五社稲荷神社参道

五社稲荷神社参道

参道入口付近の調査を終え五社稲荷神社へ向かう。参道は約200メートル。並木道の右手は文教大学。校舎やグラウンとが見える。左手には文教大学越谷図書館や文教大学大学院附属・臨床相談研究所などがある。

五社稲荷神社

五社稲荷神社

参道を300メートルほど歩くと、玉垣に囲まれた五社稲荷神社の神域に入る。松やイチョウの巨木が目印。住所は越谷市南荻島3659。創建年代は不詳。境内の縁起碑によると「第11代霊元天皇の御代1663年には鎮座されていた」とある。1663年は江戸前期・寛文3年なので、350年以上の歴史があるようだ。
 
江戸後期に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』「荻嶋村」の項に「稲荷社 村の鎮守とす」とある。江戸時代は荻島村の鎮守であったが、明治42年(1909)に、村内の熊野神社・諏訪神社・稲荷神社・愛宕神社が合祀された。

社名の由来

境内|五社稲荷神社

五社稲荷神社は、村内にある五社をここに合祀されたといわれている。社名の由来について、『埼玉の神社』(※3)に「幣殿に掛かる文化元年(1804)の古い社号額には『保食(うけもち)命・大己貴(おおなむち)命・倉稲魂(うかのみたま)命・太田(おおた)尊・大宮賣(おおみやのめ)命・稲荷社』と彫り込まれている。[……]五柱の神を祀ることから当社は『五社稲荷神社』と呼ばれるようになったものと思われる」とある。

※3 『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「五社稲荷神社」pp1178-1179

文字塔と境内社

文字塔と境内社

社殿の右手に「一万度中臣大祓」と刻まれた文字塔と、境内社が二宇ある。大きい祠が天満宮、小さいほうは小御嶽神社。

「一万度中臣大祓」文字塔

「一万度中臣大祓」文字塔

石塔型式は角柱型。年代は不詳。最頂部に「奉献」、中央に「一万度中臣大祓」(いちまんどなかとみのおおはらえ)と刻まれている。脇銘は「天下泰平」「国家安全」。
 
大祓(おおはらえ)とは、6月と12月の晦日(みそか=末日)に、万民の罪や穢(けが)れを祓う神事。「中臣の祓」(なかとみのはらえ)ともいう。「一万度中臣大祓」とは、大祓を一万回やったということではなく、何度もおこなったという意味。「万度祓」(まんどばらい)とも呼ばれる。「万度」とは度数(回数)の多い意味である。

天満宮文字塔

天満宮文字塔

天満宮の祠には「天満宮」と刻まれた文字塔が置かれている。石塔型式は祠型。江戸後期・天保9年(1838)造立。左側面には「天保九戊十二月吉日」とあり、台石には「野中組 会田周蔵」ほか寄進者16人の名前が見える。

小御嶽大神文字塔

小御嶽大神文字塔

小御嶽神社の祠には「小御嶽大神」(こみたけおおかみ)と自然石に刻まれた年代不詳の石塔がある。小御嶽大神とは富士山の五合目に鎮座している小御嶽神社の祭神・磐長姫命(いわながひめのみこと)のこと。

浅間大神文字塔

浅間大神文字塔

拝殿に向かって右側に「浅間大神」と刻まれた自然石の石塔がある。裏面には「○に岩」「荻島邨 先達」「島村善右ヱ門」「教會講社」「東京 石工郡寓書」「明治九年三月吉良日」と刻まれている。

丸岩講の講紋

丸岩講の講紋

「○に岩」のマークは丸岩講(まるいわこう)と呼ばれる富士講(富士山を信仰する組織)の印。岩槻を中心に、越谷・春日部・野田・松伏・川口などに広がった。境内には自然石による富士登山記念碑もあることから荻島村の出津地区では富士山信仰が盛んだったことがうかがわれる。

猿田彦大神文字庚申塔

猿田彦大神文字庚申塔

本堂裏手、道祖神社の横にある石塔は、猿田彦大神文字庚申塔。石塔型式は兜巾型。江戸末期・安政6年(1859)造立。正面の最頂部に「日月」が陽刻されていて、中央に「猿田彦大神」と刻まれている。脇銘に「秋海堂謹書」とある。左側面の銘は「維持(※4)安政六己未年三月吉日」、右側面には「荻嶋邑野中組講中 世話人 小川吉右ヱ門 会田要助」の銘がある。

※4 「維時」は「ときに」と読む。

疱瘡神社

疱瘡神社

本堂の裏手の左端にある境内社は疱瘡神社(ほうそうじんじゃ)。説明板には「祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)。流行病を防いでくださる神様。子供の無事成長に協力してくださる神様」と書かれている。

石塔|主尊不明

石塔|主尊不明

祠の中には主尊不明の石塔が置かれている。石塔型式は祠型。造立は江戸中期・寛保2年(1742)。正面には主銘らしきものは刻まれていない。右側面には「寛保二壬戌□天十二月吉日」とある。
 
この主尊不明の石塔について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、調査報告書「荻島地区の石仏」(※5)の中で「地元では『疱瘡神』(ほうそうがみ)の石塔とされているが、『越谷市金石資料集』の天神二番に掲載されている天満宮石塔(寛保二年〔1742〕十二月)の石塔ではないかと、大きさから考えて推定できる」と指摘している。

※5 「平成14年度調査 荻島地区の石仏」加藤幸一(平成29年3月改訂)pp50-54

 
14時35分。五社稲荷神社をあとに五番目のチェックポイントへ

移動|出津地区

移動

参道を100メートルほど戻って十字路を右折。かつて、このあたりは出津(出洲=でづ)と呼ばれ、元荒川の河川敷であった。そのまま直進すると出発時に車を駐めたセンチュリー第5駐車場に着く。五番目のチェックポイントは駐車場の橫にある敷地内の石仏群(上の画像の黄色い▼印)

山王様|出津

山王様|出津

駐車場の隣の敷地に、三猿庚申塔をはじめ大小五基の石仏が並んでいる。加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(pp51-52)に、この場所は「地元では三猿が刻まれた庚申塔があるために『山王様』(さんのうさま)と呼んでいる。猿は山王神社の使いともされている」とある。「さんのんさま」と呼ぶ人もいた。

三猿庚申塔

三猿庚申塔

向かって左端は三猿庚申塔。石塔型式は笠付角型。江戸前期・寛文9年(1669)造立。正面の最頂部に「梵字・ウーン」、主銘は「奉造立庚申供二世安楽攸(ゆう)」。下部に「三猿」が浮き彫りされている。向かって右側の脇銘は、陽刻された「日」の下に「寛文九己酉年 結衆」、向かって左は、陽刻された「月」の下に「三月吉祥日 敬白」とある。三猿の下に「武州埼玉郡荻嶋村 大熊九郎右門」ほか八名の名前が見える。

青面金剛庚申塔

青面金剛庚申塔

左から二番目は青面金剛庚申塔。石塔型式は兜巾型。江戸後期・天明5年(1785)造立。正面の最頂部に日月、中央に青面金剛像、その下に邪鬼が浮き彫りされている。左側面の銘は「天明五乙巳十一月吉日」。台石には「堤根(※6)講中 世話人 会田平六 新井左右ヱ門」と刻まれている。

※6 堤根(つつみね)…荻島村(現・南荻島)の小名(こな=村を小分けした区画の名)。荻島村は、堤根組・野会組・野中組・中組・下手組の五つの小名に分かれていた。

弁財天文字塔|寛政10年

弁財天文字塔|寛政10年

真ん中にあるのは弁財天文字塔。かなり劣化が進んでいる。石塔型式は祠型。江戸後期・寛政10年(1798)造立。

破損状態が深刻

弁財天文字塔|寛政10年

自然の風化による劣化というよりも何らかの原因で破損したように見える。笠の部分はさわるとぐらぐらするので地震などで落ちてしまうことも考えられる。破損状態が深刻。何年か後には朽ち果ててしまうかもしれない。

追記|遂に笠が崩れ落ちた

文字塔の笠が崩れ落ちた

2022年8月27日。文字塔の笠が崩れ落ちてしまっていた。その様子は下記の記事でお伝えしている。

銘文

弁財天文字塔|寛政10年

銘文(※7)
[正面]大黒天 辨財天 毘沙門天
[左側面]寛正十戊午十一月
[右側面]當村講中 世話人 内藤□□

※7 劣化が進んで銘文はほとんど確認できないので、『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日)「弁財天」(p205)および「平成14年度調査 荻島地区の石仏」加藤幸一(平成29年3月改訂)「辨財天」(p52)を参照した。「平成14年度の調査時には、文字には損傷がなく、はっきりと読めていた」(加藤氏)

弁財天文字塔|明治15年

弁財天文字塔|明治15年

右から二番目は弁財天文字塔。石塔型式は駒型。明治15年(1882)造立。正面に「辨財天」と刻まれ、右側面に「明治十五年二月」の銘が確認できる。

馬頭観音菩薩像

馬頭観音菩薩像

右端は馬頭観音菩薩像。石塔型式は舟型。大正3年(1914)造立。正面に馬頭観音菩薩像が浮き彫りされている。顔の部分が欠けてしまって補修されたあとがみえる。右側面に「大正三年十一月十八日」「南埼玉郡荻島村」「牛馬商 大塚久七建立」とある。

道標石塔跡

角地

センチュリー第5駐車場前の十字路脇(上の画像の黄色い○印の所)に道標石塔があったはずだが、なくなっている。角地のお宅を訪ねてご主人に話をうかがったところ「10年ぐらい前に自動車がぶつかって石塔が破損してしまったので処分してしまった」ということであった。残念。
 
どんな石塔だったのか。加藤幸一「平成14年度調査 荻島地区の石仏」平成29年3月改訂(p13,p52-53)に、ここにあった道標石塔について記されているので以下に転記する。

[型式]角型
[年代](江戸中期)安永10年(1781)
[正面]むかうこしかや 安永十丑 □月吉日 大熊舛右衞門
[左側面]□□おんじ三□
[右側面]左のしま地蔵 廿八丁
 
※「右 慈恩寺、向こう越ヶ谷、左 野島地蔵」と道しるべが刻まれている。

続いて七番目のチェックポイント・玉泉院へ

移動|玉泉院へ

玉泉院|白塀

センチュリー第5駐車場前の十字路を西へ進む。100メートルほど歩くと、右手が玉泉院(ぎょくせんいん)。瓦屋根が葺かれた白い塀が目を引く。道路の前方に草加バイパスと歩道橋が見える。玉泉院から草加バイパスまでの距離は50メートルほど。目と鼻の先だ。

玉泉院

玉泉院

15時。玉泉院に到着。宗派は真言宗。住所は越谷市南荻島209。草加バイパスと隣り合わせになっているが、『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「荻島玉泉院と稲荷神社」(p171)によると「かつては山林と畑地に囲まれた静かな墓地であった」という。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「新義眞言宗、末田村金剛院末、稲荷山と號し、本尊彌陀を安ず」とある。「安ず」とは安置すること。創建年代は不詳だが、かつて境内にあった落成記念碑には「(江戸後期)嘉永14年(1637)創立」と記されていた。

新四国八十八箇所三十二番標識塔

新四国八十八箇所三十二番標識塔

入口を入って右手に「新四国八州八十八ケ所第三十二番 玉泉院」と刻まれた弘法大師霊場めぐりの標識塔が建てられている。明治21年(1888)建立。「新四国八州八十八ケ所」というのは「武蔵国新四国八十八箇所」(※8)のこと。玉泉院は、武蔵国新四国八十八箇所霊場のひとつで、32番目の霊場だった。

※8 武蔵国新四国八十八箇所は、東京都足立区にある西新井大師を一番札所として、草加市・越谷市・さいたま市・川口市・足立区を巡って、川口市安行の慈林寺を結願とする札所めぐりのこと。明治時代に「三郡送り大師」と呼ばれ、盛んに行なわれた。

六地蔵

六地蔵

本堂の横手に、大小八基の石塔が並んでいる。真ん中の六基の石塔は、江戸中期・元禄5年(1692)の六地蔵供養塔。舟型の石塔に地蔵菩薩像が陽刻されている。

一石六地蔵菩薩像

一石六地蔵菩薩像

六地蔵の右手にある駒型の石塔は、一石六地蔵菩薩像。江戸中期・元禄5年(1692)。正面の最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字「カ」、中央部の主銘は「奉供養六地蔵為法印尊□菩提」(※9)。両脇に六地蔵が陽刻されている。脇銘に「元禄壬申年 三月吉良日 施主 欽白」とある。

※9 主銘のいちばん下の文字は、一文字で「菩薩」を表わす「ささてん・ぼだい」という略字が使われているが、表示できる書体がないので、ここでは「菩提」と表記した。

六地蔵付き六十六部廻国塔

六地蔵付き六十六部廻国塔

六地蔵の左手にあるのは笠付角柱型の六地蔵付き六十六部廻国塔(ろくじゅうろくぶかいこくとう)。江戸中期・明和7年(1770)造立。正面・右側面・左側面に二体ずつ合わせて六体の地蔵像が陽刻されている。六十六部廻国塔とは、全国66か国の寺院を巡礼して法華経を奉納した記念に建てられた供養塔のこと。

銘文

六十六部廻国塔

正面の銘は「奉納 大乗妙典 天下和順 六十六部 日月晴明 日本回国供養」「法華経一千部 尚運法師」「願主 越ヶ谷領荻嶋村矢部貞七行者」のほか、三人の戒名が確認できる。右側面の銘は「明和七庚寅 十月吉日」、左側面には「二郷半領 坂井木村七郎右衞門 百番供養 一切精霊」ほか戒名や人名などが刻まれている。

光明真言曼陀羅塔

光明真言曼陀羅塔

手水舎(ちょうずや)の裏手(イチョウの横)にある櫛型の石塔は光明真言曼陀羅塔(こうみょうしんごんまんだらとう)。江戸中期・宝永3年(1706)造立。正面の上部、円形に陽刻された部分(月輪=がちりん)に光明真言の曼陀羅が梵字で刻まれている。
 
脇銘には「奉供養光明真言十万遍攸」(※10)「宝永三丙戌年九月吉祥日」「施主 敬白」とあり、下部には「堤子組 四十四人」の銘が確認できる。「堤子組」は「つつみねぐみ」と読む。「堤子」は「堤根」のこと。玉泉院のあるこのあたりの地域はかつて「堤根」(つつみね)と呼ばれた。

※10 攸(ゆう)は「所」の意味。「ところ」とも読む。

移動|最終チェックポイントへ

15時10分。玉泉院を出て右へ。草加バイパス手前の十字路を右折。側道を北へ進んで最終チェックポイントに向かう。

個人墓地

個人墓地

15時15分。側道を300メートルほど歩くと、住宅街の角地にある個人墓地に着いた。ブロック塀の脇に大小二基の石塔が置かれている。

六地蔵塔

六地蔵塔

向かって右側、大きいほうの石塔は六地蔵塔。石塔型式は笠付角柱型。江戸中期・宝暦7年(1757)造立。正面・左側面・右側面に二体ずつ合わせて六体の地蔵像が陽刻されている。脇銘は「宝暦七丁丑 三月吉日」、下部に「施主 知空沙弥尼」とあり、12人の戒名がみえる。

馬頭観世音文字塔

馬頭観世音文字塔

小さいほうの駒型の石塔は馬頭観音文字塔。大正5年(1916)造立。正面に「大正五年 馬頭観世音 九月廿四日」と刻まれ、左側面には「大正五年十月」「会田浅吉建立」とある。
 
石仏調査はこれで終了。

帰途

出津の土手道

個人墓地を出て帰途につく。50メートルほど東に歩くと十字路に出る。右へ進む。この道は通称・土手道(堤根の土手道)と呼ばれ、草加バイパスの東側を草加バイパスに沿って元荒川橋から文教大堤通りと越谷流山線が交差する地点にかけて走っている。この土手道を境に、西側(草加バイパス側)が堤根(つつみね)、東側(元荒川側)が出津(でづ)と呼ばれている。

帰着

センチュリー第5駐車場|南荻島

15時30分。センチュリー第5駐車場に戻る。13時50分に出発して所要時間は1時間50分。無事調査を終えた。

総括

越谷市郷土研究会・文化財パトロール資料

今回の文化財パトロールで巡った箇所は八箇所。調べた石仏・石塔は24基。ほとんどの石仏は状態がよかったが、中には、破損して処分されてしまったものや、いつ崩れてもおかしくないものもあった。石仏や石塔は歴史を語る生き証人でもある。風化による劣化は致し方ないが、貴重な史跡でもあるので、後世にその姿を伝えてほしいと願うばかりである。

引用文献

石仏や石塔の調査にあたって、劣化や風化のために読みにくかったり判読できない箇所もあった。正確を期するために主銘や脇銘などは関係書籍や調査報告書と照らし合わせた。引用した文献を以下に記す。

引用文献

「平成14年度調査 荻島地区の石仏」加藤幸一(平成29年3月改訂)pp11-14、pp50-54
『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「荻島玉泉院と稲荷神社」pp170-172
『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「出津の板碑と神明下最勝院跡」pp172-174
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「五社稲荷神社」pp1178-1179

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、資料の提供ほか校閲もしていただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。