越谷市南荻島(出津地区)土手道沿いの地元では山王様(さんのうさま)と呼ばれる一画にある庚申塔ほか 5基の石仏を調査した。場所は玉泉院から東に50メートル、センチュリー第5コインパーキング横。劣化で笠が崩れてしまった文字塔も見つかった。
通称山王様
調査を行なったのは2022年8月27日。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、この場所は、三猿が刻まれた庚申塔があることから「地元では『さんのうさま』(山王様)と呼ばれている」(※1)そうだ。猿は山王神社の使いとされている。
※1 加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館所蔵)51-52頁
堤根と出津
[引用元]Googleマップ
上記の地図で、赤い星(★)印が、5基の石仏がある山王様の場所。緑色の道が、通称・土手道。中土手とも呼ばれる。元荒川橋のたもと(A)から文教大堤通りと交差する地点(B)まで、草加バイパス(国道4号)の東側を草加バイパスとほぼ平行して南北に縦断している。
この一帯は、現在の住所表記は「南荻島」だが、土手道をはさんで、東(草加バイパス)側を「堤根」(つつみね)、西(元荒川)側を「出津」(でず)と呼んでいる。「荻島堤根」「荻島出津」と呼ばれることもある。
土手道(中土手)から西側、元荒川右岸沿い一帯の出津地区は、広大な低地になっている。かつて、この低地一帯(出津地区)は元荒川の河川敷の遊水地(※2)であった(※3)。今は、ほぼ全域宅地化されているので、河川敷の遊水地だった面影はない。
※2 遊水地(ゆうすいち)とは、洪水のときに河川から水を流入させて一時的にため込んで、川の水位を調節する池や土地のこと。遊水池とも表記される。ためこんだ水は洪水が終わったら川に戻す。
※3 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)170頁に「(元荒川橋の手前)国道四号線(草加バイパス)を横断して行くと元荒川の中土手沿いにつらなる荻島堤根の古い集落に入る。左手は出洲(出津)と称され、もとは河川敷の遊水池であった」とある。
40年前の風景描写
昭和54年(1979)に発行された『越谷ふるさと散歩(上)』(※4)に、山王様の石仏(荻島出津中堤の石塔)が、写真とともに紹介されている(以下、引用)
(土手道から)出津の河川敷に下りると[……]畑地の中に松の木があり、松の木の下に数基の石塔が建っている。ひとつは寛文九年(1669)の三猿像が刻まれた笠付きの文字庚申塔、ひとつは天明五年(1785)の青面金剛庚申塔、それに寛政十年(1798)の「弁財天・大黒天・毘沙門天」と刻まれた石祠、明治15年(1882)の弁財天と刻まれた石塔である。
引用元: 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)171頁
※4 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「荻島玉泉院と稲荷神社」171頁
石塔群の新旧写真
石塔群の新旧写真
上の画像の白黒写真は、越谷市デジタルアーカイブで公開されている「南荻島出津・笠付文字庚申塔・石塔群(控堤)」(※5)。撮影されたのは昭和54年(1979)4月。その下のカラー写真は、私が撮ったもの。撮影年月日は令和4年(2022)8月27日。
左から三基の石塔は位置がまったく同じ(左から三番目の笠付き石塔は現在は笠が落ちてしまっている)。下の写真の右から二番目の石塔(明治15年の弁財天文字塔)は、上の白黒写真だと左端(松の木の根元)にわずかに確認できる。
下の写真の右端にある馬頭観音塔は、昭和54年当時はなかったようだ。『越谷ふるさと散歩』(上)にも載っていないし、白黒写真でも確認できない。
当時あった松の木は二本とも伐採されている。上の白黒写真では、はっきりと中土手(土手道)と河川敷(遊水地)が確認できる。下のカラー写真の車が止まっているところ(駐車場)が当時の河川敷。その横(駐車場の後ろ側)を中土手(土手道)が通っている。
二枚の写真を比べると、当時の面影が残っている様子が分かる。この場所(荻島出津中堤下の石塔=山王様)は、残しておきたい越谷の風景のひとつである。
※5 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 南荻島出津・笠付文字庚申塔・石塔群(控堤))
石塔群
山王様の石塔は全部で 5基。真ん中の石塔は笠が崩れ落ちてしまっていた。向かって左から順番に見ていく。
笠付き三猿庚申塔
向かって左端は笠付きの三猿庚申塔。江戸前期・寛文9年(1669)造立。正面の最頂部に青面金剛を表わす「梵字・ウーン」、主銘は「奉造立庚申供二世安楽攸(ゆう)」。下部に「三猿」が浮き彫りされている。
この場所を地元で「さんのうさま」と呼ばれている語源になっている庚申塔である。猿を山王様と呼ぶのは、猿が山王神社の使いとされていることに由来する。
向かって右側の脇銘は、陽刻された「日」の下に「寛文九己酉年 結衆」、向かって左には、陽刻された「月」の下に「三月吉祥日 敬白」と刻まれている。
三猿
三猿の下に「武州埼玉郡荻嶋村 大熊九郎右門」ほか八名の名前が見える。
青面金剛庚申塔
左から二番目は青面金剛庚申塔。石塔型式は兜巾型。江戸後期・天明5年(1785)造立。正面の最頂部に日月、中央に合掌型・六手の青面金剛像、その下に邪鬼が浮き彫りされている。
左側面の銘は「天明五乙巳十一月吉日」。台石には「堤根(※6)講中」の銘のほか世話人二名の名前が確認できる。
※6 堤根(つつみね)…荻島村(現・南荻島)の小名(こな=村を小分けした区画の名)。荻島村は、堤根組・野会組・野中組・中組・下手組の五つの小名に分かれていた。
笠が崩れた弁財天文字塔|寛政10年
真ん中にあるのは江戸後期・寛政10年(1798)造立の笠付き弁財天文字塔。劣化と破損ががかなり進んでいて、以前から状態が心配されていたが、ついに笠の部分が崩れ落ちてしまった。
崩れ落ちた笠
上の写真は崩れ落ちてしまった笠。
正面の主銘
正面の文字も今や「辨」(弁)しか読みとれない。ちなみに正面の主銘は「大黒天 辨財天 毘沙門天」と刻まれていた(※7)
※7 越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「平成14年度調査 荻島地区の石仏」平成29年3月改訂「辨財天」(p52)で、「平成14年(2002)度の調査時には、文字には損傷がなく、はっきりと読めていた」と述べている。
右側面|脇銘
右側面には「當村講中 世話人 内藤□□」とあったが、今は「世話人」の文字だけが残っている。
左側面|脇銘
左側面には「寛正十戊午十一月」と刻まれているのだが、今は判読不能。このまま朽ち果てて廃棄されてしまうのだろうか。せめて、このままの状態で、ここにとどめおいてほしいと願う。
現在と過去の写真
この場所は、過去二回、調査で訪れている。1枚目(左端)の写真は今回(2022年8月27日)。2枚目(真ん中)は2021年5月、3枚目(右端)は2019年6月に撮影したもの。年を追うごとに、表面の剥落(はくらく)と、笠の部分が不安定になっていっているのが分かる。
弁財天文字塔|明治15年
右から二番目は、明治15年(1882)造塔の弁財天文字塔。石塔型式は駒型。正面の主銘は「辨財天」。右側面には「明治十五年二月」と刻まれているのだが、だいぶ読み取りにくくなってきている。
馬頭観音塔
右端は大正3年(1914)造塔の馬頭観音塔。石塔型式は舟型。正面に馬頭観音菩薩立像が浮き彫りされている。顔の部分が欠けてしまって補修されたあとがみえる。
台石の正面に「有志者一同」とある。右側面には「大正三年十一月十八日」「南埼玉郡荻島村」「牛馬商 □□□□(※8)建立」と刻まれている。
※8 □□□□は個人名につき伏せた。
関連記事
2021年5月、越谷市郷土研究会の文化財パトロールに参加。この場所(出津の山王様)も調査した。そのときの様子は下記記事でお伝えしている。
2021年5月10日。越谷市郷土研究会が主催する文化財パトロールに参加した。今回調査したのは越谷市南荻島地区・文教大学周辺の社寺と石仏。五社稲荷神社や玉泉院のほか墓地や路傍にある庚申塔など八箇所・24基を巡った。
場所
出津の山王様(荻島中堤下の石塔)の住所は、越谷市南荻島212東。場所はセンチュリー第5コインパーキングの東隣( 地図 )。文教大堤通りと埼玉県道・千葉県道52号越谷流山線が交差する信号から北へ約250メートル。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、引用した箇所がある場合は、文中に引用文献を記した。参考にした書籍および調査報告書を以下に記す。
加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)