越谷市を流れる逆川(さかさがわ)。大落古利根川の古利根堰を起点に大吉と増林の境界を南西に流下。新方川を伏せ越し瓦曽根溜井で元荒川へと至る。逆川を挟んだ大吉と増林の一画は、道路の拡張などで景観が変わりつつあるが、小さな社や路傍の庚申塔なども点在している。キャンベルタウン野鳥の森の南側、新方川(にいがたがわ)に架かる定使野橋(じょうつかいのはし)から大吉調節池にかけて逆川周辺の石仏を巡った。

定使野橋|起点

定使野橋

定使野橋へは、東武伊勢崎線の北越谷駅東口から朝日バス・弥栄団地循環に乗って「小田急弥栄団地入口」バス停で下車。越谷野田線を直進。交差点を渡った前方が定使野橋

定使(じょうつかい)とは

江戸時代・村の内外の連絡事務を受け持った用務者のこと。歴史好きの人の中で、定使野(じょうつかいの)は定使が住んでいた土地のことではとの考えが広がった。「定使」とは中世、荘園において、年貢などの督促にあたった者をいう。かつて新方川の右岸側(現・花田二丁目あたり)は定使野と呼ばれる集落だった。

なお江戸時代には、ここには橋はなく、細流であった千間堀(せんげんぼり=現在の新方川)が伏越になって道路下をくぐって下流に流れていた。下流にある現在の宮前橋が当時の定使野橋であった。 

新方川

新方川|定使野橋から下流側を望む

定使野橋の下を流れているのは新方川(にいがたがわ)。千間堀(せんげんぼり)とも呼ばれる。上の写真は橋の中央から新方川の下流側を望んだ景色。正面前方に宮野橋(※1)。その後方は越谷市立花田小学校。左手前方にはリユース展望台が見える。

※1 江戸時代は、現在の宮野橋が定使野橋という名前だった。明治初期に土橋から石橋に架け替えられたとき、定使野橋から宮野橋に名前が変わった。

新方領堀改修記念碑

記念碑

定使野橋を渡った右手、木が生い茂っている一画(歩道の白いフェンス横)に、大きな記念碑が建っている。高さ4メートル50センチ、幅1メートル80センチ、厚さ40センチ(上の写真の黄色い▲印)

新方領堀改修工事概要

新方領堀改修記念碑

正面には「新方領堀改修記念碑」と刻まれている。新方領堀(にいがたりょうぼり)とは千間堀(せんげんぼり)のこと。現在の新方川。元荒川の左岸と古利根川の右岸に囲まれた区域を流れる用水路で、かつては川幅も狭く、大雨が降ると沿岸の農地は水没し、甚大な被害に見舞われた。
 
このため昭和2年(1927)から昭和8年(1932)にかけて新方領堀の改修工事を敢行。水害は根絶した。そのときの改修工事を記念して昭和8年に建てられたのがこの記念碑である。記念碑の裏面に「新方領堀改修工事概要」と刻まれ、当時の工事の様子が記録されているが、漢字片仮名交じりの文語体なので、読みづらい。
 
越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の調査報告書「増林の埋堀(うめぼり)巡検~今から三百年前は『千間堀』(せんげんぼり)だった~」(平成26年〈2014〉5月25日)に、新方領堀改修記念碑の裏面に刻まれている文面の概要が分かりやすく解説されているので、以下に引用する(抜粋)。

新方領堀(新方川)は、河幅が狭く、川底も浅く、水の流れが悪い。さらに大雨が降ると、川の水が周辺地域にあふれ、耕地にたまった水が引けずに大きな被害を受けてきた。それを新方領堀の改修によって[……]やっかいだった湿田が美田に変わったという。昭和8年(1933)のことである。

馬頭観世音文字塔が姿を現わした

2021年6月、新方領堀改修記念碑の敷地内で伐採が行なわれ、敷地内から馬頭観世音文字塔が姿を現わした。(上の写真の黄色い○印)

馬頭観世音文字塔

馬頭観世音文字塔

石塔の形式は角型。江戸末期・安政5年(1958)造立。正面の最頂部には、馬頭観音を表わす梵字「カン」。主銘は「馬頭観世音」と刻まれている。

左側面

左側面

左側面には「安政五年戊午十一月吉日謹樹之」「大吉村願主」「世話人」「万次郎」「次郎吉」などの文字が見える。
 
現在、新方領堀改修記念碑と馬頭観世音文字塔が建っている地点は増林だか、碑銘には「大吉村願主」と「大吉村」の文字がある。なぜか?
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏が、その理由を教えてくれた。「かつてこの地点は増林村ではなく大吉村に属していた(大吉村の飛び地だった)。現在の定使野橋あたりから宮野橋まで、千間堀が迂回して半円を描いて流れていた。それを直線にしたため、この場所の住所は大吉から増林になった。」
 
なるほど。それで銘に「大吉村」と刻まれているのか。石塔に刻まれている村名ひとつにもいろいろな歴史があるものだ。

右側面

右側面

右側面には「馬持□」「世話人」「連名」とあり、その下に「高畠邑」「川崎村」「大杉□」(大杉村か?)「大□村」(大吉村か?)「舟渡邑」の村名と、亀吉・万蔵・平次郎・助右衛門・善治郎など、15人の名前がみえる。
 
加藤氏によると「かつて大吉村の飛び地だったこのあたりは死馬の捨て場所であった」という。死馬を供養するために、馬主たちががこの馬頭観世音文字塔を建てたのだろう。それを裏付けるように、石塔の台石には、花を供えるための花立(はなたて)らしい一対の穴が開けられている。

上の馬頭観世音文字塔の写真(4枚)は2021年6月26日に撮影。また、文字塔の銘は、読みとれない箇所もあったので、正確を期するために加藤氏の調査報告書『新方地区の石仏』(平成7・8年度調査/平成31年1月改訂)旧大吉村の石仏(5)定使野橋そば「馬頭観音文字塔」(p68)を元にした。

かけい堀

かけい堀

新方領堀改修記念碑から50メートルほど先のT字路を右折。左に見える会社は弟子部品製造メーカーのマルニックス(越谷市増林3443-1)。道の左側を流れているのは、かけい堀(掛樋堀)。逆川から分水する用水路で、綾瀬川と古利根川の中間地点を南東に流下、1キロほど先の新田橋付近で綾瀬川の左岸に注がれる。
 
この掛樋堀の越谷野田線のちょうど道路反対側にかつては前波(ぜんなみ)土橋が逆川の上に架かっていた。掛樋堀のいわれは、江戸時代はここに千間堀からわかれて流れてくる堀の水を流す掛樋(かけい)があったためであろう。

十字路

かけい堀|十字路

かけい堀を左に見ながら100メートルほど歩くと十字路にぶつかる。右前方に、石塔が二基置かれている鞘堂(さやどう)が見える(上の写真の黄色い▼印)。

二基の庚申塔|かけい堀

二基の庚申塔

二基の石塔はどちらも庚申塔。

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

向かって左手は青面金剛像庚申塔。石塔型式は駒型。江戸中期・元禄17年(1704)造立。正面に、日月・青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿が浮き彫りされている。左側面の脇銘は「奉供養庚申講諸願成就」、右側面の脇銘は「元禄十七甲申卯月吉日」。
 
左側面と右側面に「おひつ・おたん・おまん・おけさ・おふし・おふく」「おたつ・おこ□・おふう・おけさ・おとら・おまん」など、女性の名前が刻まれている。台石には「平野源左ヱ門・岡安権志郞・中野三郎右衛門」ほか14人の名前がみえる。

道標付き庚申塔

道標付き庚申塔

向かって右手は道標付き庚申塔。石塔型式は兜巾(ときん)型。江戸後期・嘉永7年(1854)造立。正面の最上部に「日月」、台石に「三猿」が浮き彫りされている。中央に「庚申塔」と刻まれている。裏面には「嘉永七年六月吉旦樹之」とある。

右のだミち

右のだミち

右側面に「右乃だミち」(右、野田道)。西に進むとすぐに野田道に着く。

左ふどう道

左ふどう道

左側面に「左ふどう道」(左、不動道)。南にこの古道を進むと不動尊方面に向かう。「ふどう道」とは、越谷市相模町の大相模不動尊(大聖寺)に通じる道のこと。江戸時代、越谷には不動道(ふどうみち)や大相模道(おおさがみみち)などと呼ばれる古道がいくつもあった。

移動|清涼院墓地へ

庚申塔をあとに、かけい堀を超えて、道を50メートルほど進むと、右手に墓地が見える(上の写真の黄色い▼印)。次はこの墓地・清涼院墓地に向かう。

清涼院墓地

清涼院墓地

この墓地は、かつて清涼院と称された寺院の墓地である。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』「増林村」の項に「清了院 勝林寺の末、本尊観音を案ず」とある。「清了院」は「清涼院」のことか。敷地の中央は墓地。右手はトタン屋根囲いの鞘堂、左手のブロック塀沿いには石仏や墓石が並べられている。

本堂を含む清涼院は別の場所にあった

ここは寮と呼ばれるお堂があり、清涼院の離れた墓地である。実は本堂を含む清涼院はここではなく、現在の「新方領堀改修祈念碑」から「かけい堀」の南側一帯にあったという(山本泰秀氏)。広い境内が野田街道にも面していたのであろう。

地蔵菩薩立像と六地蔵

鞘堂|地蔵菩薩像

鞘堂の中に安置されているのは、八体のお地蔵様。中央に二体の地蔵菩薩立像。両脇に六地蔵が三体ずつ置かれている。

地蔵菩薩立像|舟型光背の浮き彫り像

地蔵菩薩立像|舟型光背の浮き彫り像

中央左の大きいほうの地蔵菩薩立像は舟型光背の浮き彫り像。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)。蓮台(れんだい)に乗っている。造立は江戸前期・寛文元年(1661)造立。正面の最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字「カ」。脇銘は「奉造立石地蔵一躰念佛講衆為二世」「于時寛文元年辛丑□月吉日」「敬白」などの文字が確認できる。

地蔵菩薩立像|丸彫り像

地蔵菩薩立像|丸彫り像

中央右のやや小さいほうは丸彫りの地蔵菩薩立像。右手に錫杖、左手に宝珠、蓮台に乗っている。錫杖を持つ右手に修復の跡が見える。江戸中期・安永4年(1775)造立。台石の正面には「南無□□地蔵大菩薩」、右側面には「安永四未年正月廿四日」のほか、施主の名前が刻まれている。

六地蔵

六地蔵

六地蔵のうち向かって右側の三体。左端と右端の地蔵は頭の部分が欠けてしまったようで新しい顔が付けられている。持ち物は、左から合掌、錫杖と宝珠、幢幡(どうばん)。台石には「童女」「童子」「禅尼」などの戒名のほか「女中六人」「十月吉日」などの銘が確認できる。

六地蔵

六地蔵のうち向かって左側の三体。真ん中の地蔵像は後頭部から首にかけて補修の跡がみられる。持ち物は左から幢幡(?)、柄香炉、数珠。台石には「童女」「童子」「禅定尼」「禅定門」などの戒名のほか「奉造立六地蔵」「念佛同行六十五人」「清涼院」「享保五庚子天」の銘が確認できる。
 
「享保五庚子天」の銘があるので、六地蔵の造立は江戸中期・享保5年(1720)とも思われるが、六地蔵の大きさや蓮台・台石などの古さにばらつきがあるようにも見えるので、正確な年代は決めかねる。

石仏

石仏

墓地に入って左手、ブロック塀沿いの手前に石仏や供養塔などがまとめられている。

地蔵菩薩座像

地蔵菩薩座像

石仏群の向かって左端。前列に丸彫りの地蔵菩薩坐像がある。風化が進んで大半がウメノキゴケ(※2)に覆われている。造立年代は不詳。

※2 ウメノキゴケ(梅の樹苔)…古い石仏によく見られる白いまだら模様。白いカビやセメントで補修したようにも見えるが藻類と菌類が共生している地衣類(ちいるい)の一種。コケの仲間でもない。梅や松の古木や岩などに着生する。大気汚染に弱いので、その指標に利用されたりもする。

石灯籠供養塔

石灯籠供養塔

地蔵菩薩坐像の後ろにあるのは、増林村の念仏講中によって造塔された石灯籠の供養塔。石塔型式は頭部半球付角型。江戸中期・享保7年(1722)造立。主銘に「奉納石燈籠」、脇銘に「増林村」「念佛講中」「享保□壬寅年」(※3)「七月吉日」とある。

※3 享保の壬寅(みずのえとら)は享保7年(1722)なので、脇銘の欠損部分は「七」と思われる。

十三仏塔

十三仏塔

十三仏が陽刻されている笠付角型の十三仏塔。十三仏とは死者の追善供養で初七日から三十三回忌までの十三仏事に当てられた13の仏菩薩のこと。亡くなった人を浄土に導く。
 
正面の最上段、左から阿弥陀如来・虚空蔵(こくうぞう)菩薩・阿閦(あしゅく)如来・大日如来。二段目、左から勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来。三段目、左から普賢(ふげん)菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩。四段目、左から文殊(もんじゅ)菩薩・釈迦如来・不動明王。
 
石塔の左側面には「明和七庚寅二月吉日」の銘があり、基壇(きだん)には「天明七未天」「江天旭潭」「二月廿七日」とある。明和7年(1770)は江戸中期、天明7年(1787)は江戸後期。十三仏塔と基壇はもともとは別のものだったのかもしれない。
 
その下の台石には「講中」とあり、妙空・貞光のほか、おはな・おはち・おはつ・おしけ・おかく・おきわ・おいく・おかち・おまん・おさい・おさわ・おろく・お七など、女性の名前が刻まれている。

十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔

十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔

十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔(※4)。江戸中期・寛延4年(1751)造立。石塔型式は駒型。正面の上部に陽刻された如意輪観音坐像、中央に「三界万霊等」と刻まれている。「三界万霊等」の「等」は「塔」の俗字。右側面の銘は「武州崎玉郡新方領増林村」「寛延四辛未年十月吉日上全波」

※4 三界万霊塔(さんがいばんれいとう)とは、命あるものが住む三つの世界◇欲界(よっかい)◇色界(しきかい)◇無色界(むしきかい)―と、すべての精霊(万霊)を供養するために建てられた塔のこと。

拾九夜念佛供養塔

拾九夜念佛供養塔

左側面には「拾九夜念佛供養塔」「講中三十人」「願主 平野源八」とあるので、地元・増林村の念仏講中によって建てられた十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔である。
 
十九夜待ちとは、十九夜の夜に講中(こうじゅう)と称する仲間が集まって、飲食をともにしたあと、念仏を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという風習。月待(つきまち)とも呼ばれる。
 
十九夜の月待を行なった記念として、講中によって建てられたのが十九夜塔(十九夜念仏供養塔)。

如意輪観音坐像

如意輪観音坐像

十九夜月待は如意輪観音を本尊とするので、十九夜塔には如意輪観音坐像が浮き彫りされていることが多い。この石塔の上部にも(上の写真)如意輪観音が陽刻されている。

出羽三山及び百箇所巡礼塔

出羽三山及び百箇所巡礼塔

出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山)と、坂東三十三箇所・西国三十三箇所・秩父三十四箇所(合計百箇所)の観音霊場を巡拝した記念に建てられた巡礼塔。江戸後期・文化7年(1810)造立。石塔型式は兜巾(ときん)型。正面の主銘は「羽黒山 湯殿山 月山」「秩父 西国 坂東 」「奉巡禮百番供養塔」、脇銘は「天下泰平」「国土安穏」
 
左側面には「文化七庚午年」「増林村」「世話人」の銘のほか、38人の名前がみえる。右側面には「十二月吉日」のほか、「大吉村」「大沢下宿」「向畑村」「松伏村」「赤岩村」「藤塚村」「中井村」「川崎村」の村名と、16人の名前がみえる。裏面には「増林村」「向畑村」の村名と、9人の名前が刻まれている。

僧侶の墓石

石仏群には僧侶の墓石も置かれている。

暦住塔

暦住塔

自然石の暦住塔(れきじゅうとう)。「暦」「住」「塔」と篆書(てんしょ)三文字が刻まれている。暦住塔とは歴代住職の墓塔の所在を示す標識石塔であろう。もともとは歴代住職の墓地にあったものがこの場所に移されたらしい。

暦住塔|裏面

暦住塔|裏面

暦住塔の裏面に銘が刻まれている。中央は「前□平□鳳十九世千舟海鱗大和尚」。左下は「清涼院而造立之者也」と読める。

庵主の供養塔|元禄10年

清涼院庵主供養塔

主銘に「風屋嶺順庵主」という戒名が刻まれた供養塔。脇銘は「元禄十丁丑年」「十一月八日」江戸中期・元禄10年(1697)造立。石塔の型式は上部隅丸角型。庵主(あんじゅ)とは尼僧のこと。この石塔は清涼院の住職を務めた尼僧の供養塔と思われる。

住職の供養塔|延享4年

住職の供養塔|延享4年

「本空 守山全國上座 品位」と刻まれた供養塔。「品位」は「ほんい」と読み、亡くなった僧侶の霊への尊称。江戸中期・延享4年(1747)造立。石塔の型式は兜巾型。脇銘は「延享四丁卯年」「十月二十八日」とある。この石塔も江戸時代、清涼院の住職を務めた僧侶の供養塔であろう。

住職の供養塔|文政2年

住職の供養塔|文政2年

「前永平 知見大和尚禅師」と刻まれた供養塔。江戸後期・文政2年(1819)造立。石塔型式は櫛型。脇銘は「文政二卯年」「五月」。「大和尚」「禅師」とあるので、この石塔も清浄院の住職を務めた僧侶の供養塔と思われる。

ブロック塀沿いに並べられている歴代住職の供養塔や暦住塔は、もともとは墓地の一画にあった歴代住職の墓地内にあったと思われる。平成4年(1992)に行なわれた墓地の区画整理のさいに、歴代住職の墓地は除かれ、墓石と供養塔だけが、ブロック塀沿いに移されたのだろう。

無縁塚

無縁塚

西側ブロック塀沿いの奥は無縁塚。無縁仏がまとめられている。元禄・明和・天明・文政…。江戸中期から後期の墓石が多い。敷地内の清涼院墓地区画整理記念碑(平成5年〈1993〉4月建立)に「平成4年(1992)に行なわれた墓地の区画整理工事のさい、縁者がいなくなった旧墓石は無縁塚に合祀した」ことが記されている。