越谷市大沢・旧日光街道沿いの照光院にある無縁塚。この地は、江戸時代、大沢宿と呼ばれた宿場町で、照光院の無縁塚には、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれた女性たちの供養墓石がまじっていると伝えられている。

飯盛女とは

飯盛女のイメージ画像

飯盛女(めしもりおんな)とは、江戸時代、宿場町の旅籠(はたご)にいた女性のこと。
 
本来の仕事は、旅籠で働く飯炊きや、旅人への食事の給仕(飯盛り)を担当する下女(げじょ)だった。
 
しかし、街道が発展し、旅人が増えるにつれ、その多くが実質的には、遊女(ゆうじょ)として、旅人の相手をするようになった。この特殊な接待をした女性を「飯盛女」と呼んだ。
 
幕府はたびたび遊女まがいの行為を禁止するお触れを出したが、取り締まりはむずかしく、飯盛女の数は増え続けた。
 
飯盛女を抱える旅籠は「飯盛旅籠」(めしもりはたご)と呼ばれ、一般の旅籠とは区別されていた。

大沢宿における飯盛女の始まりと増加

無縁塚

日光街道の宿場町のひとつであった大沢宿(現・越谷市大沢周辺)は、江戸の玄関口に近く、飯盛女が多くいた。

始まり

大沢宿で飯盛女が確認されたのは、江戸前期・寛文2年(1662年)に旅籠屋「藤屋伊兵衛」が飯盛女を抱えたのが最初とされている(※1)

※1 『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』「宿場と飯盛旅籠」65頁

規制と違反

幕府は当初、遊女行為を禁止し、のちには一軒の飯盛旅籠につき二名までと人数を厳しく制限した。しかし、大沢宿の飯盛旅籠は、この規制を無視して過剰な数の飯盛女を抱えていた記録が残っている。

増加

江戸後期・文化年間(1804~1818年)ごろには、大沢町の飯盛旅籠は22軒を数え、飯盛女の数は100名以上に及んでいたとされる(※2)
 
夜になると飯盛女が旅籠の見世先(みせさき)に並んで客を呼ぶなど、遊廓に近い営業形態をとっていた。
 
大沢宿の飯盛女の噂は江戸でも評判で、「『大沢橋に大蛇が出ても、大沢通いはやめられぬ』と唄われるほどの盛況をみせた」(※3)という。

※2 『越谷の歴史物語(第一集)』「大沢町の飯盛旅籠と飯盛女(その一)」62頁

※3 『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』「宿場と飯盛旅籠」65頁

厳しい取り締まり

幕府は、たびたび取り締まりをおこない、江戸後期・寛政2年(1790年)には、過人数の飯盛女を抱えていた旅籠の店主が追放刑(所払い=ところばらい)という厳しい刑に処されている。

飯盛女の出身地と当時の状況

無縁塚

飯盛女として働く女性たちの多くは、越後国(現在の新潟県)など、貧しい農村地域の出身であった。
 
越後地方では、娘を口減らしのために他国へ売り出す風習があり、専門の人買い業者を介して、金で買われた彼女たちは、年季奉公という形で、宿場の旅籠で働かされた。
 
『越谷の歴史物語(第一集)』によると、「飯盛女の多くは当初借りた身代金の高利な利息が雪だるま式にふくらみ、生涯、苦界(くがい)から抜けでることができなかった」という(※4)

※4 『越谷の歴史物語(第一集)』「大沢町の飯盛旅籠と飯盛女(その二)」65頁

照光院の無縁塚

照光院の無縁塚|越谷市大沢

宿場の賑わいのために飯盛女を置くことが容認された側面もあったが、彼女たちは宿場の最下層として扱われ、過酷な状況で働いた。
 
旅人に特殊な接待を強いられた飯盛女たち。宿場町の華やかさの裏には「飯盛女」と呼ばれた女性たちの存在があった。
 
照光院の無縁塚には、金で買われ、国に帰ることは許されず、この地で亡くなった薄幸の飯盛女たちの供養墓石もまじっているという。

照光院

照光院|越谷市大沢

照光院の住所は、 埼玉県越谷市大沢2-4-6( 地図 )。場所は、東武伊勢崎線・北越谷駅東口から旧日光街道(埼玉県道325号線)を右に折れて、200メートルほど進んだ右手。

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

越谷市役所『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
越谷市役所『越谷の歴史物語(第一集)』越谷市史編さん室(昭和53年8月20日発行)
『ときの風~ふるさと大沢今昔物語』大沢地区コミュニティ推進協議会(2018年4月発行)
加藤幸一「大沢町・越ヶ谷町の石仏」平成13年度調査/平成31年7月改定(越谷市立図書館所蔵)