越谷市大松にある清浄院(しょうじょういん)の標石や廻国塔などの石塔のほか、境内の風景を現地で取材した写真とともにお伝えする。
清浄院
調査したのは 2024年12月5日。まずは清浄院(しょうじょういん)について簡単に触れておく。
清浄院の歴史は古く、室町時代、賢真上人(けんしんしょうにん)によって開山されたと伝えられている。江戸時代には徳川三代将軍・家光から高十二石寺領(御朱印領)を賜り、浄土宗大本山増上寺(港区芝)直末寺に置かれた。
宗派は浄土宗。栄広山浄土寺清浄院(えいこうざん・じょうどじ・しょうじょういん)と称す。通称、清浄院。本尊は阿弥陀如来。
戦国時代(室町時代)には、新方領(にいがたりょう)六ヶ村(船渡・大松・大杉・川崎・向畑・大吉)に勢力が及び「六ヶ村栄広山」とも呼ばれた。
それでは清浄院の「石塔」からを見ていく。
石塔
紹介する石塔は四基。
- 標識石塔
- 六十六部廻国塔
- 開山宝塔
- 文誉上人の墓塔
標識石塔
六阿弥陀巡りの札所であることを示す標識石塔。江戸後期・天明8年(1788)造塔。もともとは山門前にあったが、参道を整備したときに客殿の入口横に移された。
石塔型式は山状角柱型。正面の主銘は「新阿弥陀六番」。最下部は「願主 船渡邨 受道」。左側面の銘は「天明八戊申歳」。右側面には「五月廿五日」とある。
六阿弥陀巡りとは、阿弥陀仏を本尊とする六箇所のお寺を春と秋の彼岸に参拝するとご利益があるとされ、江戸中期・元禄時代に庶民の間で盛んに行なわれた。
越谷周辺地域にも江戸六阿弥陀めぐりをまねて、江戸中期・天明年間(1781年~1789年)ごろから「新六阿弥陀めぐり」が行なわれていた。
①天嶽寺(越ヶ谷)②林泉寺(増林)③源光寺(松伏町)④林西寺(平方)⑤安国寺(大泊)⑥清浄院(大松)の六寺。
清浄院は第六番の札所だった。
六十六部廻国塔
地蔵菩薩立像を戴いた六十六部廻国塔(ろくじゅうろくぶ・かいくこくとう)。江戸中期・正徳3年(1713)造塔。場所は境内にある無縁墓の隣。
六十六部廻国塔とは、大乗妙典(だいじょうみょうてん)とも呼ばれる法華経(ほけきしょう)を66部写経し、全国66か国の寺院を巡礼して、1部ずつ奉納した記念に建てられた供養塔のこと。
蓮台の正面に「奉納大乗妙典」、台石の正面中央に「六十六部日本廻国」と刻まれている。
開山宝塔
清浄院の開山宝塔。場所は歴代住職の墓所。
江戸中期・元文元年(1736)造塔。塔身の正面に「宝徳元己巳年」「当院開山宝塔」「七月廿八日」と刻まれている。「廿八日」は「二十八日」。
開山宝塔は、宗派や寺院を開いた僧を葬った墓に建ててある石塔。
清浄院の開山僧は賢真上人(けんしんしょうにん)で、江戸後期、幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』によると、賢真上人の没年は「宝徳元七月廿八日」(※)とある。
※1『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大松村 清浄院」181頁
藤原様
開山塔の最頂部に溝がある。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると「この溝に板碑を差し込んで、これを『藤原様』と呼んだ。藤原様は地元の人々によって大いに信仰され、関東大震災のころまで多くの参詣者でにぎわった」(※2)という。
※2 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「大松清浄院」49頁
文誉上人の墓塔
文誉上人(ぶんよしょうにん)の墓塔(宝塔)。場所は歴代住職の墓所。年代不詳。塔身正面に刻まれている「文誉上人」「真□社」の銘が、かろうじて読みとれる。そのほかの銘は風化により解読不能。
文誉上人について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は次のように述べている。
清浄院の中興である文誉上人(新蓮社〈しんれんしゃ〉文誉宗公林窓上人)は戦国時代の頃の第十四代の住職である。敵を追い払って、奪われた新方郷(にいがたごう)の領地を取り戻し、さらに敵に焼き払われた清浄院を再建した。のちに人々は文誉上人の霊を敬(うやま)い、「新方様」(しんぽうさま)と呼び、後々まで信仰された。
引用元:「新方地区の石仏」(※3)
※3 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「大松清浄院」49頁
境内の風景
続いては境内の風景を見ていく。