三基の石塔
向かって右手は道しるべを兼ねた庚申塔。真ん中と左端の石塔は墓塔。
道しるべ付き庚申塔
道しるべ付き庚申塔の造立は寛政3年(1791年)。正面に「青面金剛」(しょうめんこんごう)の文字、その下に三匹の猿が陽刻されている。右側面には「左 じおんじ のじま 道」(※3)とある。
※3 じおんじ(慈恩寺)は、さいたま市岩槻区にある天台宗の寺院。「左 じおんじ 道」とは、この道を左(北西)に進むと慈恩寺に着く、の意。「のじま道」(野島道)とは、越谷の野島に向かう道のこと。
押立堤
石仏の裏手から元荒川の上流(北越谷第五公園の裏手)に沿うようにして土手道が続いている。この土手道は、元荒川の前身である「元・利根川」左岸の自然堤防を利用した河道跡で、押立堤(おったてつつみ)と呼ばれている。「押立」の名前の由来は不明。
押立(おったて)は、旧・大房村にあった村組(むらぐみ)の呼称で、現在の北越谷五丁目に相当する地域が、押立組(おったてぐみ)と呼ばれていました。また、押立堤は奥州古道の通過地点であったと推定されます。
押立堤については秦野氏が「『往古奥州道』と『押立堤』について」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/239.pdf
移動|旧日光街道
押立堤を下りて、旧日光街道(埼玉県道325号線)を歩く。
北越谷五丁目排水機場
左手に見える施設は北越谷五丁目排水機場。
大林排水機場
北越谷五丁目排水機場から250メートルほど歩いた右手の施設は大林排水機場。
脇道
100メートルほど先の横断歩道を渡って脇道(市道)を道なりに進む。
東福寺跡
正面に墓地が見えてきた。この墓地は、かつて東福寺と呼ばれた寺院の跡地(※4)。現在は共同墓地になっている。
※4 新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「大林村」182頁に「東福院 大房村浄光寺門徒、本尊不動」とある。
「日光道中分間延絵図」(※5)に、大林寺の南側に隣接して東福寺(※6)が描かれています。
※5 分間延絵図(ぶんけんのべえず)…江戸幕府が東海道の状況を把握するために、精密な測量や調査を行なって作成した絵地図。江戸後期・文化3年(1806)に完成。東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道と脇街道が描かれている。正式名称は「五街道分間延絵図」(ごかいどうぶんけんのべえず)。日光街道を描いたものが日光道中分間延絵図(にっこうどうちゅうぶんけんのべえず)
※6 日光道中分間延絵図には「東福院」と書かれている。
石塔
墓地内には石仏などは見あたらないが、入口付近に六地蔵石幢(ろくじぞう・せきどう)や地蔵菩薩立像などがある。墓地の裏手に見える森は宮内庁埼玉鴨場。
大林河畔砂丘
共同墓地の敷地をよく見ると砂地になっている。このあたり(元荒川の左岸)は、越谷に5箇所ある河畔砂丘のひとつ「大林河畔砂丘」(おおばやしかはんさきゅう)。東福寺は河畔砂丘の上にあった。
海道西遺跡
共同墓地の隣に建築中の住宅があるが、この場所が、今回のガイドツアーの目玉である海道西遺跡(かいどうにしいせき)。今年(2022年)の5月に発見された平安時代(9世紀ごろ)の竪穴式住居跡。
このあたりの住所表記が、越谷市大林字(あざ)海道西であることから、小字名(こあざめい)をとって「海道西遺跡」と命名された。
遺跡はすでに埋め立てられ、住宅の建築が始まっているので、発掘時の様子を知ることはできなかった。
現地説明会
現地で待ち合わせをしていた、越谷市教育委員会生涯学習課の担当者による海道西遺跡の現地説明会が行なわれた。
今年(2022年)の 4月から 5月にかけて行なわれた発掘調査で、数千点の土器類が出土し、9世紀後半から10世紀初頭、平安時代の竪穴式住居跡であることが判明しました。住居内には、かまどの跡もあり、住居跡の近くでは死んだ人を火葬する土坑(どこう)や人骨も見つかり、ここで人々が生活していたことが分かりました。
海道西遺跡は、このまま住宅になってしまうが、現地説明会に立ち会った住宅の建築を請け負っているポラス(POLUS)の担当者から「ここに貴重な遺跡があったことを後世に残すために案内板の設置を検討している」という話があった。
平安時代に人々が生活していた竪穴式住居跡に、1200年の時を経て、再び人々が暮らし始める、というのも何かの縁かもしれない。
発掘調査報告書の刊行について
海道西遺跡の詳細については、2022年度中に「発掘調査報告書」として刊行される予定。「発掘調査報告書」は市内の図書館や地域学習センターに置かれる。
関連記事
海道西遺跡の現地説明会の様子が「とーよみnet」東武よみうりウェブ版(2022年12月26日)に掲載された。
古代の越谷には「河畔砂丘」という砂丘地があり、人の暮らしがあったーー。越谷市大林の「海道西遺跡」でこのほど現地説明会が開かれ、市民約20人が参加した。NPO法人越谷市郷土研究会、NPO法人住まい・ま
奥州古道(?)
現地説明会を終え、路地(市道)を北へ進む。左手は共同墓地、右手は海道西遺跡。案内役の秦野氏から「まっすぐ延びている道は奥州古道であると推定される」との話があった。
大林寺
海道西遺跡から 100メートル。左に見える寺は大林寺(だいりんじ)。曹洞宗の寺院。創建年代は不詳。
大乗妙典供養塔
山門前の右手にある石塔は、大乗妙典(だいじょうみょうてん)供養塔。造塔は江戸中期・寛保元年(1741)。主銘に「奉読誦 大乗妙典 一千部供養塔」と刻まれている。
大乗妙典とは、法華経(ほけきょう)と呼ばれている仏教の経典で、この石塔は、大乗妙典を千回、読誦(どくじゅ)した記念に建てられた。
住職がお出迎え
大乗妙典供養塔を見学していると、出先から戻った大林寺の住職が出迎えてくれた(写真の緑色のジャージ姿が住職です)
大林寺は、もともとは野島の浄山寺(じょうざんじ)の隠居寺(いんきょでら)で、戦前までは尼寺でした。
境内を見学
住職の案内で、境内やかつての本堂などを見学させてもらった。
出世大黒天
門扉をくぐった左手にあるのは出世大黒天。太平洋戦争が厳しくなってきたころに新宿の某寺から大林寺に寄進された。
安置されている大黒天は、「江戸後期・嘉永元年(1848)、京都の彫刻師・雲桂作と台座に銘記されている」ことが、案内板に書かれている。
本堂
現在の本堂は 40年ほど前に新築されたもので、本堂の橫手には昔の本堂が残っています。
旧本堂
旧本堂。エメラルドグリーンのトタン葺き屋根が、まわりの樹木と青空に映えて、なかなか美しい景観だ。
歴代住職の墓塔
墓地に移動した住職が、歴代住職の墓塔について話を聞かせてくれた。
移動|大野島越谷線
大林寺をあとに、大野島越谷線(埼玉県道325号)に出る。左に曲がって信号を左折。路地(市道)を進む。
キクラゲ
伐採された朽ち木にキクラゲが生えていた。キクラゲは漢字で木の耳(木耳)と書くが、たしかに、人の耳に似てなくもない。と、前方に越谷梅林公園が見えてきた。