越谷市・西新井山王神社の三猿庚申塔のほか石仏と由来碑を調べた。場所は、越谷街道と荻島仲良し通りの交差点から北40メートル、末田用水沿いにある。
西新井山王神社
調査日は、2025年1月11日。山王社の建立は、由来碑では、ご神体(三猿庚申塔)が造塔された江戸前期・延宝6年(1678)としている。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏(※1)は、「山王社」(さんのうしゃ)の名は、山王社の神使(しんし=神の使い)の猿が刻まれた庚申塔が、ご神体として祀られているからだろう、と述べている。
※1 加藤幸一「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂「旧西新井村の石仏」67頁
石造物
調査日は、2025年1月11日。調べた石造物は以下の四基
- 祠内|三猿庚申塔
- 鳥居脇|青面金剛像庚申塔
- 鳥居脇|石橋供養塔
- 祠横|由来碑
まずは、祠内の三猿庚申塔(さんえん こうしんとう)から見ていく。
特記|加藤氏のスケッチ
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏が、平成14年(2002)に、山王社の石仏を調査してスケッチに記録しているので、加藤氏に許可を得て、転載した(※2)
山王社の石仏は、風化と劣化で、主尊の像容や銘文が見づらくなってしまっているので、加藤氏のスケッチと照らし合わせると、ひじょうにわかりやすい。
※2 加藤幸一「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂「大石橋北側の山王社」25-26頁
祠内|三猿庚申塔
祠に安置されているのは、ご神体の三猿庚申塔。江戸前期・延宝6年(1678)建立。石塔型式は駒型。中央の主銘は「奉供養庚申二世安楽所」。脇銘は「延宝六午年」「西新井東村」「十月十五日」「同行九人」。下部に、9人の名前が刻まれている。
参考|加藤氏のスケッチ
※スケッチは加藤幸一氏提供
三猿
石塔の最下部に、三猿が陽刻されている。向かって左から言わ猿・聞か猿・見猿。
言わ猿
言わ猿(いわざる)。中央を向いて口を押さえてしゃがんでいる猿。
聞か猿
聞か猿(きかざる)。中央を向いて耳をふさいでしゃがんでいる猿。
見猿
見猿(みざる)。中央を向いて目をおおってしゃがんでいる猿。
鳥居脇
鳥居の左脇に二基の石仏が並んでいる。向かって左は青面金剛像庚申塔、右は石橋供養塔。
青面金剛像庚申塔
青面金剛像庚申塔。江戸後期・文化9年(1812)造塔。石塔型式は山状角柱型。正面に陽刻されているのは上から「瑞雲に乗った雲」「青面金剛像」「二鶏」「三猿」
植木の陰になって、青面金剛像の下半身が見づらい。下の加藤氏のスケッチを参照。
参考|加藤氏のスケッチ
※スケッチは加藤幸一氏提供
青面金剛の像容
青面金剛は一面六臂(いちめんろっぴ=顔がひとつて腕が六本)の剣人型(※3)。右手に宝剣、左手でショケラ(人身)の髪をつかんでいる。ほかの手の持物は、左上手に法輪、左下手に弓、右上手に三叉鉾(さんさほこ)、右下手に矢。
※3 青面金剛像の多くは、腕が六本(六臂=ろっぴ)で、右手に剣を持ち、左手に「ショケラ」と呼ばれる人身を持つ剣人型(けんじんがた)と、中央の手が合掌している合掌型(がっしょうがた)の二種に大別できる。
左側面
左側面の銘は、中央に「文化九壬申十一月吉日」
両脇には「此方 東 こしかや」「か□□し江戸道」とあり、道しるべになっている。
右側面
右側面も道しるべになっていて、「この方 乃じま道」とある。左下の銘は「西新井村」
石橋供養塔
石橋供養塔。江戸中期・明和3年(1766)造塔。石塔型式は駒型。正面の最頂部に一仏の座像。主尊名はわからない。
主銘は「奉供養石橋建立常念無衰無變」。脇銘は「旹明和三丙戌天」「十二月上旬」「岩槻領 西新井村」のほか、願主名が刻まれている。
植木の陰になって、石塔の下部(銘)が見づらい。下の加藤氏のスケッチを参照。
参考|加藤氏のスケッチ
※スケッチは加藤幸一氏提供
左側面
左側面には、二人の人名と、28の村名が刻まれている。劣化が進んでいるので、目視ではほとんど確認できない。
越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の現地調査報告「荻島地区石仏」(※4)と照らし合わせて、刻まれている村名を以下に記す。
上野田村・玄番村・後谷村・間宮村・大崎村・辻村・高畑村・大谷村・戸塚村・寺山村・□□村・行□村・下野田村・染谷村・□□村・山村・新井村・□藏村・大竹村・尾ケ崎村・同新田・釣上村・同新田・長島村・神明下村・越ヶ谷宿・平間村・笹丸村
※4 加藤幸一「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂「大石橋北側の山王社」68頁
右側面
右側面には、個人名・戒名・屋号などが、25近く刻まれている。
祠横|由来碑
祠の右隣にある自然石の碑は、山王神社の由来が刻まれた由来碑(山王神社碑)。明治32年(1899)10月建立。山王神社建立の由来が文語体で刻まれている。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏が、由来碑に刻まれている碑文の大意を現地調査報告「荻島地区石仏」(※5)の中で記しているので、以下、引用・抜粋する。
当社(庚申塔を祀る山王社)は、延宝六年(一六七八)、当地[中略]八名の諸氏によって建立されたものである。
ご神体の庚申塔が約二百二十年間、雨風にさらされてきた。明治二十八年(一八九五)になって、おかしな噂がたちはじめた。近ごろ当集落に火災がしばしばみられるようになったのは、いわれのあることであると。
もともと西新井には山王社が二社ある。西にあるのを「西山王」、東にあるのを「東山王」と呼んでいる。西山王は、祠に納め毎年まつりごとを行なっている。
ところが東山王は、放置されていて、このようなことをしていない。そのために祟(たた)りによって火災が起きたのであろうと思い、有志を募って東山王を納める祠を建立し、お祓いをしてもらい、まつのごとを行なうことにした。
それ以来、大いなるご利益(ごりやく)があり、多くの参拝者でにぎわうようになった。引用元: 「荻島地区石仏」(※5)
※5 加藤幸一「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂「大石橋北側の山王社」67頁
景観
境内は、いたって狭いが、植木などの手入れが行き届いている。今でも地元の人たちに敬(うやま)われているのがわかる。
朱色の鳥居は明神鳥居(みょうじんとりい)。昭和62年(1987)2月再建。神額には黒文字で「山王神社」と書かれている。
祠堂
祠堂は、木造で、屋根は銅板葺き。紅白の鈴紐に金と銀の鈴がつるされている。ご神体(三猿庚申塔)の両脇には、キツネの置物が置かれている。
大石橋
山王社の目の前を流れているのは末田用水(すえだようすい)。下流(南)40メートル先に架かっている橋は大石橋(おおいしばし)
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏の話では、「山王社は、もとは大石橋の東詰め南側にあって、(聞き取り調査をした)地元の古老の話によると、地元の多くの方々がお参りに来ていた」という。
特記事項
今回調査した西新井山王神社の石造物は、劣化と風化が進んでいるものが多く、読み取りづらい銘文も多々あった。本記事を作成するにあたって、銘文については、万全を期すために、越谷市郷土研究会・加藤幸一氏の現地調査報告「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)と、照らし合わせた。
場所
西新井山王神社の場所は、越谷街道と荻島仲良し通りの交差点(大石橋)から北40メートル、末田用水沿い( 地図 )
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参考文献
本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。
加藤幸一「荻島地区石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
外山晴彦・『サライ』編集部編『神社の見方』小学館(2007年7月15日 初版第6刷発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
謝辞
本記事をまとめるにあたって、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただきました。加藤氏には心からお礼申しあげます。