2023年3月3日から5日、越ヶ谷宿の雛めぐりイベントがこうじや音楽館で開かれた。初日は旧日光街道越ヶ谷宿を考える会主催のお話会「私たちの越谷と家康」、2日目は琵琶とリュート、3日目は手回しオルゴールとリュートのミニコンサート。当日の様子をお伝えする。
初日|お話会・私たちの越谷と家康
2023年3月3日。こうじや音楽館で行なわれたのは、旧日光街道越ヶ谷宿を考える会主催のお話会「私たちの越谷と家康」。話し手は、旧日光街道越ヶ谷宿を考える会の宮川進氏。NPO法人・越谷市郷土研究会の前会長でもある宮川氏は越谷の歴史と秘話の語りべ的存在。
家康は松潤よりもイケメンだった?
今回のお話会は、じつは家康は松潤よりもイケメンだった?という話からはじまって、今の越谷があるのは家康のおかげ……などなど、越谷市民にはほとんど知られていない家康と越谷との関係を約1時間にわたって宮川氏が話をしてくれた。
家康と越谷の四つのご縁
いまの埼玉県内で、徳川家康とのご縁がいちばんあるのは「越谷」です。家康の生国、育った国である三河や駿河にしても、越谷ほど家康のご縁をこうむったところはないと思われます。今日は、家康と越谷の四つのご縁について、お話しさせていただきます。
以下、宮川氏の講話を抜粋して紹介する。
(1)越谷の川の整備をしてくれた。
家康は、小田原の後北条氏を滅ぼしたごほうびに、秀吉から関八州(※1)をもらいました。まずは自分のものとなった領地を見て歩いたところ、関八州は家康の好きな鷹狩の楽しめる土地だったのです。
これはいいところだ、と家康は思いました。しかし、利根川と荒川が流れ込んでいるあたりは、鷹狩の獲物も多いけれど、このふたつの川が洪水になると、江戸もあぶない。
そう思った家康は、群馬から流れる利根川を銚子のほうに流し(利根川東遷=とねがわとうせん)、秩父から流れている荒川を西にあった入間川の流路に流すようにしました(荒川西遷=あらかわせいせん)
そのことで、利根川と荒川という大河にじゃまされ、越谷に少なかった居住地と農地が増え、越谷の危険は去りました。
※1 関八州(かんはっしゅう)…江戸時代の関東八か国の総称。現在の関東地方にあたる。越谷は武蔵国(むさしのくに)に属していた。
(2)越谷に御殿までつくってくれた。
越ヶ谷御殿跡碑(越谷市御殿町)
鷹狩が好きだった家康は、鷹狩に訪れるさいの自前の宿泊所である「御殿」(ごてん)をあちこちに造りました。越谷にも越ヶ谷御殿と呼ばれる御殿を造りました。
埼玉県内では、家康の御殿は五箇所ありました(小規模の御茶屋御殿=休憩所=は除く)。そのうち家康がいちばん利用したのは越ヶ谷御殿のようです。
越谷に御殿を造ったことで、家康はひんぱんに鷹狩で越谷に訪れました。そのことで家康と越谷の結びつきが強まったのです。
(3)日光街道に越谷を通してくれた。
五街道を整備した家康ですが、日光街道(奥州街道)は、どこを通すか、思い悩んだと思われます。まさに「どうする家康!」ですね。
常識的に考えれば、現在の日光御成街道(にっこうおなりかいどう)にしようとしたと思います。今の北千住~草加~越谷ルートでは、利根川と荒川を瀬替(せが)えして東と西にもっていっても、水害の起こりやすい土地を通すことになります。
それに比べると、江戸・本郷~岩槻~川口~鳩ヶ谷~大門~岩槻~幸手・上高野という大宮台地の上を通るルートのほうが安全です。安全を重視する家康が、なぜ、あえて「越谷」ルートを日光街道に選んだのでしょうか。
そこには家康の「越谷びいき」があったと思われます。越谷での鷹狩が大好きだった家康は、江戸から鷹狩に行くときの行き帰りの利便性を考え、あえて越谷を通るルートに日光街道をもってきたのではないでしょうか。
越谷に日光街道が通り、越ヶ谷宿が置かれ、それが「宿場町」として発展したことが、今の越谷市35万都市の基盤になったのです。
(4)越谷に朱印状をたくさん発給してくれた。
徳川家康公像(浄山寺)
武蔵国(むさしのくに)に領地を与えられた家康は、有力寺社に朱印状(※2)を出しました。
※2 朱印状(しゅいんじょう)とは、戦国大名や江戸時代の将軍が、花押(かおう)の代わりに朱印を押して発行した公的文書のこと。
家康から朱印状をもらった越谷市内のお寺は七箇所あります。
- 大聖寺
- 林西寺
- 天嶽寺
- 浄音寺
- 照蓮院
- 迎摂院
- 浄山寺
浄山寺(じょうざんじ)については、朱印状をいただくさいに、寺号をそれまでの「慈福寺」(じふくじ)から「浄山寺」に変更するように上意(じょうい)があり、寺領300石の朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったので、家康が鼻紙に三石と書いて与えたという伝説があります。
七箇所という数字は、埼玉県内でいちばん多いようです。越谷に次いで川口市が六箇所、旧・岩槻市(現・さいたま市岩槻区)が五箇所、旧・大宮市(現・さいたま市大宮区)が4箇所です。
これも家康の越谷びいきの気持ちからではないかと思われます。
当時の「地域の文化センター」は寺院でした。その後の越谷の文化度の向上に役立つプレゼントとして家康が与えてくれたのが「御朱印」だったのです。
家康とのご縁は越谷市民の誇り
家康が越谷に贈ってくれたご縁=プレゼントを忘れないようにしたいものです。このご縁を越谷市民の誇り(シビックプライド)として、次世代の越谷市民にも伝えていこうではありませんか。
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2023年1月8日から始まるNHK大河ドラマ「どうする家康」の放送を記念して、2022年11月、越谷市北越谷地区センター・公民館主催「令和4年度・歴史探訪講座」の中で「家康と私たちの越谷」と題したお話会が行なわれた。じつは家康は越谷が大好きだった――。
徳川家康こしがや館
越ヶ谷宿の雛めぐりイベントの一環として、2023年3月3日から5日までの間、旧日光街道沿いの店舗「ぬ志徳」で、展示会「徳川家康こしがや館」が開かれた。
企画をしたのは、今回のお話会の語り手をつとめた旧日光街道越ヶ谷宿を考える会の宮川進さん。NHKの大河ドラマ「どうする越谷」の放送にちなんで、徳川家康と越谷の関係を示す貴重な資料がパネルで展示された。