越谷市新川町の満蔵院墓地にある三基の石仏、地蔵菩薩立像と脇侍の二童子(掌善童子・掌悪童子)を調べた。

満蔵院墓地

満蔵院墓地|越谷市新川町

満蔵院墓地は、この地を開発した会田七左衛門政重(あいだ しちざえもん まさしげ)が創建した満蔵院と称された寺院跡。明治6年(1873年)に越巻学校が開校された地でもある。

地蔵菩薩二童子

地蔵菩薩二童子|満蔵院墓地

今回は、墓地の一角、小屋囲いの中に安置されている三体の仏像(地蔵菩薩二童子)の調査。調査日は、2025年1月13日。

地蔵三尊

地蔵三尊

三仏の中央は地蔵菩薩。両脇は脇侍(わきじ)の二童子。掌悪童子(しょうあくどうじ)と掌善童子(しょうぜんどうじ)。地蔵菩薩二童子は「地蔵三尊」(じぞうさんそん)とも呼ばれる。

地蔵菩薩

地蔵菩薩立像

地蔵菩薩立像。石塔正式は光背型。年代不詳。最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字「カ」。そのほかの銘は刻まれていない。
 
像容は、髪をそった丸い頭で、衲衣(のうえ)をまとい、左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っている。

地蔵菩薩の顔

おでこの真ん中にあるホクロのようなものは、地蔵菩薩の特徴でもある白毫(※1)。耳たぶには大きな穴(ピアスのあと)があいている。慈悲に満ちたやさしいお顔だ。

※1 白毫(びゃくごう)とは、一本の白い毛が丸まったもので、光を放って国々を照らすといわれている。

掌悪童子

掌悪童子

向かって左は、煩悩を滅ぼすとされる掌悪童子(しょうあくどうじ)。石塔型式は舟型。年代不詳。銘は確認できない。

像容

掌悪童子

表情は忿怒相(ふんぬそう=怒った顔)。髪は螺髪(らほつ=巻き貝のような形をしたちちだれた髪形)。体は赤身で肩と腰に衣をまとい、煩悩を打ち砕く金剛棒(こんごうぼう)を握った右手を頭上にかざしている。
 
掌悪童子の赤い体を表わすために、石塔全体が赤みを帯びている。

掌善童子

掌善童子

向かって右は、仏心(ほとけごころ)を育てるとされる掌善童子(しょうぜんどうじ)。石塔型式は舟型。年代不詳。銘は確認できない。

像容

掌善童子

表情は慈悲相(じひそう)。丸い頭で、体は白く、腰に衣をまとい、両手で一本の蓮華を持っている。
 
掌善童子の白い体を表わすために、石塔全体が白みを帯びている。

満蔵院の地蔵盆

小堂

満蔵院には、毎年8月23日の夜に行なわれる地蔵盆という風習があった。
 
平成2年(1990年)第22回越谷市民文化祭に出品された「越谷郷土研究会出品作品」の中に、「永光山満蔵院地蔵盆と燈籠の由来」と題した名倉さわ氏の論考があり、満蔵院の地蔵盆について紹介されている。以下、引用・抜粋。

満蔵院には、年代不詳の三体の地蔵尊が小屋に安置されている。中央の一帯は大きいが、両側の二体は丈も低く小さい。当地の人々は、子育て地蔵様と親しみをもって呼んでいる。
 
毎年(地蔵の縁日前日の)八月二十三日の夜に地蔵盆が開かれる。
 
地蔵盆の日、手作りの長方形の木の枠で作られた燈籠(とうろう)を持ち寄り、日の暮れるのを待って、燈籠に蝋燭(ろうそく)の火をともす。人々は、夜涼みつつ、お地蔵様に参詣に来る。
 
今も往古をしのび、その風習は続いている。手作り燈籠に描かれた絵は、ちょっとした夏の風物詩であろう。

※2 名倉さわ(1990)「永光山満蔵院地蔵盆と燈籠の由来」(http://koshigayahistory.org/a-06.pdf)(2025年1月13日閲覧).

場所

満蔵院墓地|越谷市新川町

満蔵院墓地の住所は、越谷市新川町1-295。場所は、七左エ門通りと蒲生岩槻線が交差する信号から北西120メートル。蒲生岩槻線(埼玉県道324号)沿い( 地図 )。裏手はJR武蔵野線の高架。

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参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「出羽地区石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市役所『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
薬師寺君子『決定新版 日本の仏像230 写真・図解ですべてがわかる!』西東社(2022年3月10日発行)