本殿
足止めの狛犬を見学したあと、本殿の裏手へ。神職さんが個人的にいちばん好きだという位置から本殿を拝む。江戸後期・寛政元年(1789)に建立された三間社流造(さんげんしゃながれづくり)のきらひやかな本殿。随所に施されている精巧な彫刻に目を奪われる。
久伊豆神社の御祭神
本殿では、五柱の神々を御祭神としてお祀りしています。主祭神(しゅさいじん)は、大黒様こと大国主命(おおくにぬしのみこと)と、御子神の言代主命(ことしろぬしのみこと=えびす様)の父子神。配祀神(はいししん)として、大国主命の娘である高照姫命(たかてるひめのみこと)、言代主命のお妃様・溝咋姫命(みぞくいひめのみこ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)第二の御子・天穂日命(あめほひのみこと)の三柱をお祀りしています。
創建年代は不詳だが、平安時代中期以降には、地元の武士や庶民の信仰を集めてきたとの記録が残っている。徳川将軍家とのつながりも深く、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩り(※5)のさいには久伊豆神社に参拝し、休憩したと伝えられている。
※5 越谷には徳川幕府指定の鷹場(たかば)があった。
平田篤胤奉納・天岩戸の図(複製)
本殿裏手の玉垣に、古事記の天岩戸(あまのいわと)開きを題材にした絵馬額のレプリカが架けられている。この天岩戸の図(あまのいわとのず)は、江戸後期・文政3年(1820)に、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)が久伊豆神社に奉納した絵馬額「天岩戸開之図」の複製。図案は篤胤が考え、絵は画工の山里貞由が描いた。
平田篤胤は越谷とは縁が深い。越谷には篤胤の門人も多く、門人のひとりである越ヶ谷宿の豪商・山崎長右衛門(屋号は油長=あぶらちょう)は、金銭的な援助のほか、篤胤の三番目の妻おりせの仲立(なかだち)もしている。山崎家には、平田篤胤から贈られた掛軸をはじめ和歌の短冊・書簡・金銭の借用証文など数多くの資料が保管されている。
天水桶
神職さんが、普段は入ることができない本殿脇(立入禁止区域)に置かれている一対の天水桶(てんすいおけ)を特別に見せてくれた。それぞれ鞘堂(さやどう)に収められている直径1メートル余の天水桶は、江戸後期・天保12年(1941)に奉納されたもので、久伊豆神社の社紋・右離れ立葵も刻まれている。かつては、社殿の正面(左右)に置かれていたが、老朽化により、この場所に移された。
鍋屋・塗師屋・豆腐屋・糀屋…
天水桶には寄進者の住所や氏名が連記されている。越ヶ谷町・瓦曽根・四丁野・神明下・大沢・谷中・花田…。鍋屋・塗師屋・豆腐屋・穀屋・釘屋・糀屋などの屋号も見られる。当時(江戸後期・天保年間)の越ヶ谷宿の有力な商人を知る手がかりとなる貴重な史料にもなっている。
境内社|本殿裏
続いて本殿裏の境内社を案内してもらった。
本殿裏には、諏訪神社・稲荷神社・五前神社・天満宮・三峯社・御獄神社・八坂神社、七社をお祀りしている境内社があります。五前神社(※6)には、陰陽五行思想と習合した(木)久久能遅神=くくのちかみ(火)軻遇突智神=かぐつちのかみ(土)埴安神=はにやすのかみ(金)金山彦神=かなやまひこのかみ(水)罔象女神=みずはのめのかみ、五柱の神々が祀られています。
※6 五前神社の読み方は「ごぜんじんじゃ」だが、久伊豆神社では、通称「ごきょうじんじゃ」と呼ばれている。
久伊豆神社社叢
本殿裏は、人間が手を加える以前の原植生(げんしょくせい)であるスダジイをはじめヒノキ・タブ・モチノキ・ケヤキなど6メートルを超える木々の林になっている。なかでもスダジイ林が定着しているのは珍しく、学術的にも価値が高いとして、本殿裏の社叢(しゃそう)は「久伊豆神社社叢」の名で、越谷市の記念物(名勝)にも指定されている。
遥拝殿
本殿隣の敷地(道路側)にある社は遥拝殿(ようはいでん)。第一次世界大戦後、日本の統治下にあった南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に、昭和天皇の思し召しにより昭和15年2月11日に創立された南洋神社(なんようじんじゃ)を再建、祀ってある。
南洋における伊勢神宮の分社ともいうべき存在だったパラオの南洋神社は、第二次大戦後(昭和20年9月)に、お焚き上げとなり廃社となったが、南洋の地で開拓に励んだ日本人入植者や戦火に散った英霊への感謝と鎮魂の意を後世にわたって伝えていくべき、平成16年(2004)に、伊勢神宮と旧南洋神社関係者の協力と指導のもと「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」(きゅうかんぺいたいしゃ んようじんじゃ ちんざあとち ようはいでん)として建立された。
参集殿
続いて、参道から見て本殿右手前にある参集殿(さんしゅうでん)へ。参集殿に展示されている宝物~伊勢神宮から賜わった御神宝の弓や装束のほか、第三鳥居建立や越谷お木曳祭の様子を写した写真、伊勢太太講から奉納された扁額など~について神職さんが解説してくれた。例大祭(越ヶ谷秋まつり)で担がれる神輿も展示されている。
霊験を示した久伊豆神社の神輿
幕末の安政5年(1858)に、コレラが大流行したことがあった。死亡した患者は、徳川十三代将軍家定をはじめ、江戸市中だけでも 2万8000人に達したといわれている。このときに久伊豆神社の神輿が霊験を示した。
『越谷市史一(通史上)』越谷市役所(昭和50年3月30日発行)第10章 宗教生活「越ヶ谷久伊豆神社」の項に「(越ヶ谷本町の)内藤家『記録帳』によると、安政五年(1858)のコレラ大流行のさい、越ヶ谷町では当社(久伊豆神社)の神輿を町内に設けた御仮屋(おかりや)に安置し、悪魔退散の祈願を執行したが、当地域からは一人のコレラ患者もでなかった」と記されている。
また、『越谷の歴史物語(第一集)』越谷市役所(昭和53年8月20日発行)「伝染病と越谷」の項にも「越ヶ谷本町の内藤家の『記録』によると、コレラの流行におののく越ヶ谷町民は、疫病除け祈願のため越ヶ谷久伊豆神社の神輿を町内に迎え、盛大な祈願祭を執行した。この時の参拝者は町内や在郷の人々はもちろん、草加宿や粕壁宿からも三日間にわたって群衆した」とある。
午後3時半。以上で境内散策は終了。待殿(まちでん)へ戻る。
越ヶ谷秋まつり解説のあと解散
神職さんから例大祭(越ヶ谷秋まつり)について詳しい解説があったあと、質疑応答、アンケート記入を行ない、越谷技博「久伊豆神社の神職と境内散策ツアー!」は無事終了。解散となった。所要時間は約2時間。
最後に神職さんからひとこと――
本日は、境内を巡りながら、わずかではありますが、久伊豆神社の歴史に触れていただきました。神社にある奉納物や石碑、変わることなく受け継がれてきた祭りなどを通じて、宿場町として繁栄した越ヶ谷宿の文化を感じていただけたでしょうか。これを機に、今まで以上に久伊豆神社を身近に感じていただけたら嬉しいです。
感想
越谷技博「久伊豆神社の神職と境内散策ツアー!」初日の参加だったが、神職さんの軽妙なトークとなごやかな雰囲気の中、今まで見過ごしていたり素通りしていたスポットをあらためて深く掘り下げて知ることができた。それにしても案内役を務めた神職さん二人の巧みな話術には驚かされた。修学旅行の定番地・奈良の薬師寺のお坊さんにも負けていないかも。あらためて二人の神職さんにはお礼申しあげる。
久伊豆神社神職と境内散策ツアー!は初日の時点で、残りの日程もすべて満席となってしまった。残念ながら今回、参加できなかったかたは、このブログを読んで追体験していただければと思う。実際のツアーよりも役に立つかも、ってそれはないか(笑)