移動|側道(大間野一丁目)
蒲生岩槻線を渡った先の丁字路を右へ。側道に入って南へ進む。このあたりの住所は大間野一丁目になる。気温は30度。日差しがあいかわらず強い。
丁字路|新川左岸
丸善越谷工場を過ぎた先で丁字路にぶつかる。丁字路の前方(写真の黄色い▼印)フェンスが設けられているのは新川(古綾瀬川)。30メートルほど先にある新川排水機場から綾瀬川に注がれている。
岩槻道
丁字路を左へ。新川に沿ったこの道は岩槻道(いわつきみち)と呼ばれた古道。新川は江戸時代は古綾瀬川と呼ばれていた。元の綾瀬川という意味で、かつては新川が綾瀬川の本流であったと思われる。
この道は、岩槻の城下町に通じる岩槻道です。新川の上流をたどり、五才堀沿いをたどり、県道浦和越谷線の五才川橋交差点(現在は橋は失われています)を通過して釣上方面に進みます。
(参考)新川(古綾瀬川)と岩槻道|加藤氏作図
後日、「新川(古綾瀬川)と岩槻古道(岩槻道)」の図解(上の写真)を加藤氏から提供していただいた。加藤氏が描いたこの図をみると新川の左岸側に沿って岩槻道が続いているのがよく分かる。
上の写真の黒い太線が岩槻道の経路。日光街道の追分(上の写真の右下、青い○印)から岩槻道が分かれ、新川の左岸沿いに北西に向かい、途中から旧長島村の五才堀沿いに北に向かい(上の写真の左上、青い↑印)、岩槻の城下町に通じる。
岩槻道は、江戸時代の初期は「慈恩寺道」(じおんじみち)と呼ばれていた。慈恩寺は、岩槻にある天台宗の寺院(さいたま市岩槻区慈恩寺139)。現在もある。
休憩|綾瀬川左岸土手脇
14時35分。丁字路から岩槻道を50メートルほど歩き、住宅地の一画にある空き地に入って小休止。空き地のすぐ先は綾瀬川の左岸土手。日差しが家屋にさえぎられているので、かなり涼しい。加藤氏から出発時に熱中症対策用に全員に配られた冷却タオルの使い方の説明があった。首に巻くとさらに涼しくなった。
新川排水機場
休憩を終え、綾瀬川左岸土手の遊歩道に出る。上流側、50メートルほど先に新川排水機場が見える。新川排水機場に向かった。
除塵機
フェンス越しに排水機場をのぞいてみると、正面に水色の施設が見える。この施設は除塵機(じょじんき)。左手から流れてくる新川の水は、この除塵機でゴミなどが取り除かれてから、地下を通って綾瀬川に注がれる。
処理された新川の流れ
上の写真は新川排水機場の上手から見た景色。左手が排水機場。除塵機で処理された新川の水は地下(堤防の下)を通って右手にある白い手すりのついた放流渠(ほうりゅうきょ)の下にある放水口から綾瀬川に放流されている。
放流渠
放流渠をのぞいてみると放流口(上の写真の黄色い▲印)から新川の水が綾瀬川に注がれているのが分かる。
排水機場の役割
放流渠の上に白いバルブが見える。大雨などで綾瀬川の水位が高まったときに、綾瀬川の水が新川に逆流しないように、このバルブを回して放流口(ゲート)を閉める。一方、放流口を閉められて出口を失った新川の水は、排水機場内の排水ポンプで汲み上げられて、綾瀬川にはき出される。これによって住宅地への浸水被害が軽減される。
案内役の秦野氏から排水機場の役割について説明があった。
大雨などによって本流の水位が上昇すると、逆流を防止するために、支流の流れ込む樋門(ひもん)のゲートを閉じるので、支流の排水が不能になって、支流の上流側が氾濫してしまいす。これを内水氾濫(ないすいはんらん)といいます。この「破堤」(はてい)のない「氾濫」(はんらん)――堤防が壊れることなく洪水になってしまうことを防ぐのが排水機場の役割です。
ちなみに越谷市には35箇所の排水機場(ポンプ場)がある。
移動|綾瀬川左岸遊歩道
新川排水機場をあとに綾瀬川左岸の遊歩道を下流に向かって移動。新川排水機場から60メートルほどの場所で止まる。
新川(古綾瀬川)流路跡
綾瀬川の北側を綾瀬川と並行して東南から東に流路を変えて流れてきた新川(古綾瀬川)は、そのまま直流して斜めに綾瀬川左岸に流れ込んでいた(この流路は土手の設置によって失われてしまった)。案内役の加藤氏が、新川と綾瀬川の合流地点に向かって、その失われた新川の流路跡を実際に歩きながらたどって示してくれた。
綾瀬川|縄文時代の丸木舟の発見地
かつての新川(古綾瀬川)が綾瀬川に注がれていた合流地点に立った加藤氏から「昭和4年(1929)の春、綾瀬川の川底さらいをしているときに、当時の綾瀬川の中央で、川底から丸木舟が発見された」という解説があった。
発見場所は越谷市と草加市のちょうど中間でした。珍しそうなので引き上げることになり、草加と越谷のどちら側に引き上げるかが問題になりましたが、作業がしやすいということで草加市が引き上げました。後年、平成13年(2001年)、この丸木舟の分析を行なったところ約5300年前、縄文時代前期のものであることが分かりました。
引き上げ当時は、5000年以上のものとは誰も想像できなかったと思われます。現在は綾瀬川の大幅な拡張で、当時の発見場所は今では越谷寄りになっています。丸木舟は越谷側の古綾瀬川(今の新川)から綾瀬川に流れてきたのかもしれません。もし越谷側が引き上げていたら丸木舟は越谷市の文化財になっていたでしょう。
現在、その丸木舟は「綾瀬川(旧新田村)出土丸木舟」(あやせがわ〔きゅうしんでんむら〕しゅつどまるきぶね)の名称で、草加市の有形文化財(歴史資料)に指定され、草加市歴史民俗資料館(草加市住吉1-11-38)の展示室に収められている。
(参考)丸木舟発見場所|加藤氏作図
後日、丸木舟発見場所の図解を加藤氏から提供していただいた。加藤氏が描いたこの図をみると丸木舟の発見場所は一目瞭然。
移動|岩槻道に戻る
綾瀬川をあとに岩槻道に戻って右へ。150メートルほど歩くと前方に次の見学先である西浦橋が見えてきた(上の写真の黄色い▼印)。
出羽堀ポンプ場
西浦橋手前の右手に見える施設は出羽堀ポンプ場。出羽堀排水地区の浸水被害対策のために設けられている。大雨などで綾瀬川が増水したときは、新出羽堀と綾瀬川の合流地点のゲートを閉じ、出羽堀の水をこのポンプ場で汲み上げ、ゲートを閉じた場所から50メートルほど上流側で、綾瀬川に強制的に放出する。これにより出羽堀の内水氾濫を軽減することができる。
西浦橋
14時55分。西浦橋(にしうらはし)に到着。先ほども通ったので「戻ってきた」と言うべきか。炎天下、参加者のみさなんは誰もが元気。健脚ぶりには脱帽だ。
西浦橋|新出羽堀側の景色
西浦橋から出羽堀の下流側(新出羽堀)を望む。前方に水門が見える。かつての出羽堀は西浦橋の手前から東に流路を変えて蒲生大橋の先で綾瀬川に注がれていたが、現在は西浦橋からそのまままっすぐ流れて綾瀬川に注がれている。西浦橋から綾瀬川にまっすぐ続く水路は新しく作られたので、新出羽堀と呼ばれる。上の写真は西浦橋から見た新出羽堀の風景ということになる。
西浦橋|出羽堀上流側の景色
西浦橋から出羽堀の上流を望む。前方のヤオコー越谷蒲生店の看板が目を引く。先ほど通った出羽橋も小さく見える。
馬捨て場の馬頭観音塔
西浦橋東詰のたもとに石仏が三基並べられている。二基は馬頭観音塔。案内役の加藤氏からこの石仏についての解説があった。
江戸時代、蒲生村のはずれに馬捨て場がありました。場所はここから東へ30メートルほどいった二股の道路のあたりです。今は道路になってしまっていますが、当時は出羽堀はここ(西浦橋)から東に流れていました。その旧・出羽堀の南側沿いに馬捨て場があり、これらの石仏(馬頭観音塔など)は、そこの今はなき出羽堀沿い南側に建てられていました。
出羽堀の流路変更と道路整備のさいに石仏はここに移された。
三基の石仏
台石の上に並んでいる三基の石仏は向かって左から馬頭観世音文字塔、馬頭観音像、主尊不明の石塔。台石の横にも「大正五歳三月吉祥」の銘がある小さな駒型の石塔などが三基ほどあるが、主尊などは不明。
馬頭観音像塔
江戸中期・宝暦9年(1759)造立。石塔型式は駒型。頭上に馬頭をいただいた三面の馬頭観音立像が陽刻されている。胸の前で馬口印(ばこういん)を結んでいる。左側面には「施主」「八条領蒲生村」、右側面には「宝暦九己卯三月吉日」とある。
「馬の頭をもつ観音」の意。さまざまな観音様の中で、馬頭観音だけが憤怒の相をしている。みっつの顔をもった三面像が多い。もともとは六観音・七観音のひとつとして仏教的に信仰されていたが、江戸中期以降になると、農耕や運搬などで馬を使用する人々から馬の守護神として信仰され、馬の供養や往来の安全などを願って、さかんに馬頭観音塔が建てられるようになった。馬捨て場をはじめ農地や路傍に多くみられる。
三面の憤怒相
劣化が進んでいて顔がはっきり確認できないが、頭の上に馬の頭をいただき、顔は三面、忿怒相であることが分かる。
馬口印
胸の前で馬頭観音の印相(いんぞう)である馬口印(ばこういん)を結んでいる。
馬口印は、馬の口の様子をあらわしています。親指・中指・小指を立て、人差し指と薬指は曲げ、そして両手を合わせます。しかしながら石仏では細かい指の形を表現するのはむずかしいので、工夫してあらわされています。
馬頭観世音文字塔
馬頭観世音文字塔。江戸末期・安政6年(1859)造立。石塔の型式は駒型。正面に「馬頭観世音」と刻まれている。その下に「當所」とあり「正治郎」「丈吉」「巳之助」ほか九人の名前が確認できる。左側面には「安政六未年三月吉日」とある。
西浦橋たもとの石仏をあとに東へ向かう。