移動|茜通りへ

茜通り

150メートルほど歩くと、茜通りに出た。ちょうどこの地点が茜通りの終点になる。

茜通りを超える

茜通りを超える

茜通りを超えて道なりに東へ進む。

三宝荒神塔|蒲生西町二丁目

三宝荒神塔の解説をする案内者

40メートル歩いた路傍(民家の垣根の間)に一基の石塔が置かれている。住所は越谷市蒲生西町二丁目。案内役の加藤氏からこの石塔についての解説があった。参加者のみなさん興味津々。加藤氏の説明を聞きながら石塔を覗き込む。

案内役の加藤氏

この石塔は、もともとは屋号が荒神山(こうじんやま)と呼ばれた屋敷内の塚の上に祀られていた荒神様(あらがみさま)こと三宝荒神塔(さんぽうこうじんとう)です。三宝荒神は仏・法・僧の三宝を守護する神で、江戸時代は、竈(かまど)の神、台所の神として信仰されていました。

「三宝大荒神」文字塔

「三宝大荒神」文字塔

三宝荒神塔の造立は江戸後期・文政7年(1824)。石塔の型式は祠型。正面に「三寳大荒神」と刻まれている。左側面には「文政七申年」「三月吉日」、右側面には「石宮再造之」とある。
 
15時10分。三宝荒神塔をあとに東へ進む。

遊歩道|旧・出羽堀跡

遊歩道|旧・出羽堀跡

20メートルほど先にある緑に覆われた遊歩道を歩く。木陰で日差しがさえぎられているので、かなり涼しい。外の炎天下が嘘のようだ。出発から二時間近く強い日差しの中を歩いてきたので、街路樹の緑のありがたさをあらためて痛感した。
 
この遊歩道はかつての出羽堀跡。その出羽堀沿いの脇を岩槻道(いわつきみち)と呼ばれる古道が通っていた。同行した秦野氏が岩槻道についての要点を話してくれた。

案内役の秦野氏

岩槻道は、荒川本流であったと推定可能な古綾瀬川(のちの新川)左岸の「自然堤防」の上を道として利用しました。この「大河の自然堤防上を利用した道」という点を抑えておいてください。

小鎮様|蒲生西町一丁目

小鎮様|蒲生西町一丁目

東武伊勢崎線の高架下(西町公園・高架下一号公園)に着く。蒲生駅と新田駅の中間地点。右手に小さな社が見える。この社は旧蒲生村西組の鎮守・久伊豆神社(越谷市蒲生西町1-6)。通称、小鎮様(しょうちんさま)。今日は気温30度の炎天下なので、熱中症を予防するために行程を縮小。小鎮様の見学は見送りとなった。
 
高架下から小鎮様に手を合わせ、東武伊勢崎線の高架に沿って蒲生駅方面へ向かう。

房州石を使った石蔵

房州石を使った石蔵

20メートルほど歩いた右手にお屋敷があり、美しい石造りの倉が見えた。秦野氏が「あの蔵は房州石(※4)を使って造られています」と教えてくれた。

※4 房州石(ぼうしゅういし)…千葉県房総半島で採石された石。耐火力が強いので蔵をはじめ塀や建物の土台など、建築資材として使われた。横浜の開港や皇居の造営などの土木建築工事にも使用された。大谷石の進出で衰退したが、江戸中期から明治・大正にかけての最盛期には年間56万本近くが切り出されたという。

移動|東武伊勢崎線高架下

東武伊勢崎線高架下|蒲生西町一丁目付近

東武伊勢崎線(上り線側)高架下の道を蒲生駅方面に向かって歩く(上の写真は蒲生西町一丁目付近)。高架が日差しをさえぎってくれるので歩きやすい。

山王社跡|蒲生西町一丁目

山王社跡|蒲生西町一丁目

15時20分。高架下の道を250メートルほど空いた先の丁字路を右へ。住宅街に入る(越谷市蒲生西町一丁目)。かつてこの場所に山王社と呼ばれる社があった。山王社について案内役の加藤氏が話をしてくれた。

案内役の加藤氏

かつてこのあたり一帯は山王耕地(さんのうこうち)と呼ばれる農地でした。ちょうどみなさんが立っているあたりに山王権現(さんのうごんげん)を祀る山王社がありました。山王耕地の宅地開発によって山王社は廃社となり、先ほどの小鎮様(しょうちん)さまに合祀されました。小鎮様の参道には、このときに移された「山王大権現」と刻まれた石塔があります。

(参考)山王大権現文字塔

山王大権現文字塔

上の写真は山王社から小鎮様の参道に移された山王大権現文字塔。2021年5月14日に越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部の巡検で立ち寄ったときに撮影した。江戸後期・文政7年(1824)造立。正面に「山王大権現」と刻まれている。

移動|蒲生岩槻線交差点

移動|蒲生岩槻線交差点

山王社跡を出て、東武伊勢崎線高架下の道を右へ。100メートルほど歩くと、左右に延びる蒲生岩槻線とぶつかる。横断歩道を渡って蒲生岩槻線を超える。左へ

大踏切跡|蒲生駅高架下

大踏切跡|蒲生駅高架下

蒲生岩槻線が通る東武伊勢崎線・蒲生駅の高架下。高架線になる前は無人の大踏切だった。

貨物引き込み線跡・倉庫跡

貨物引き込み線跡・倉庫跡

蒲生駅高架下駐輪場の入口で、案内役の加藤氏が「昔ここに貨物の引き込み線があった」という話をしてくれた。

案内役の加藤氏

かつて、高架下駐輪場から東武ストア蒲生店のあたりにかけて、貨物の引き込み線が通っていました。東武ストア蒲生店がある場所には、引き込み線の駅と倉庫がありました。

見取り図|貨物引き込み線・倉庫

見取り図

本日、出発時に配られた資料の中に「当時の引き込み線と倉庫の見取り図」があり、その見取り図を見ながら当時を振りかえった(見取り図は越谷市郷土研究会の渋谷氏が作成)。蒲生駅の西口一帯は田んぼだったことや線路と蒲生駅の周囲には水路が張り巡らされていたことなどが分かる。たいへん貴重な資料だ。

用水跡|東武ストア蒲生店東脇

用水跡|東武ストア蒲生店東脇

続いて東武ストア蒲生店の裏手へ移動。店舗の脇に小道があるが、かつてそこは用水路だった。渋谷氏の見取図にもその場所の水路の流れが描かれている。水路は上の写真の黄色い▼印のように向こう側からこちら側に流れていた。
 
見学はこれで終了。

帰着|蒲生駅東口

蒲生駅東口

15時35分。蒲生駅東口に帰着。

あいさつ|解散

蒲生駅東口|構内

15時40分。案内役をつとめた加藤氏と秦野氏のあいさつのあと、お二人に感謝の気持ちを込めて参加者全員が拍手。お開きとなった。

後記

資料

今回の巡検「蒲生村の石仏と歴史・西部編」は、気温30度の中、約4キロメートルを3時間半かけて巡った。元禄八年の「大間野村元禄八亥御検地御水帳、書抜」原本を目にすることができたことは驚きであった。岩槻道と出羽堀についても深く知ることができた。炎天下、参加者の体調にも気を配りながら案内をしてくれた加藤氏と秦野氏にはあらためて感謝の意を示したい。

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、今回の巡検(蒲生村の石仏と歴史・西部編)の案内役をつとめた越谷市郷土研究会顧問・加藤氏と、同行した越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部代表・秦野氏の指導を仰ぎ、校閲もしていただいた。加藤氏からは貴重な資料も提供していただけた。加藤・秦野両氏には心からお礼申しあげる。