涅槃堂|ちょかく

16時10分。久伊豆神社(しょうちん様)を出て左へ。40メートルほど先の道路脇にある涅槃堂(ねはんどう)に着いた(越谷市蒲生西町一丁目)。敷地はそれほど広くない。奥に本堂、手前の鞘堂(さやどう)には二基の墓標が並んでいる。

案内役の加藤氏

現在は涅槃堂となっていますが、地元では「ちょかく」と呼ばれていました。「ちょかく」の意味は不明。行き倒れの人を葬った無縁墓があったとの言い伝えが残っています。

二基の墓標

二基の墓標

鞘堂にある二基の墓標。向かって右手、小さいほうは板碑型の墓石。江戸前期・寛文12年(1672)造立。梵字「ア」のほか、「□□□禅定尼菩提」「寛文十二年壬子」「十月三日」などの文字が確認できる。板碑に似た板碑型をしているので、江戸時代の初期の墓石とわかる。
 
向かって、左手、大きいほうの墓石には如意輪観音座像が刻まれている。如意輪観音は女性から篤く信仰させていたので女性の墓だ。石塔の型式は舟型。江戸前期・延宝4年(1676)造立。正面の最頂部に梵字「ア」。中央に陽刻された如意輪観音坐像。脇銘に「妙叶禅定尼傾證佛果也」「延宝丙辰年廿月(※7)十六日」「施主」「敬白」とある。

※7 廿月は、十二月の誤りか?

地蔵院

地蔵院|冠木門

涅槃堂を出て左へ。60メートルほど歩くと地蔵院の裏手、冠木門(かぶきもん)に着く。住所は越谷市蒲生1-15-18。真言宗豊山派の寺院。摩尼山(まにさん)蒲生寺 地蔵院。
 
地蔵院は、蒲生村西組の名主を務めた中野家の先祖が開基したと伝えられている。創建年代は不詳。江戸後期に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』「蒲生村」の項には「摩尼山と號す、本尊地蔵を安ず、中興宥敞享保十年示寂せり。地蔵堂二宇。一は六角堂にて、六地蔵を置けり」とある。

墓地

墓地

本堂裏手は墓地。地蔵院を開基した家の先祖代々の墓塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などもある。個人墓地なので立ち入りは見合わせた。

本堂前

地蔵院|本堂前

本堂の前にまわる。本堂は平成16年(2004)5月に新築されたので新しい。境内には、北向地蔵や六角堂などがある。明治初年(1868)、蒲生村の仮の事務所(のちの村役場)が、一時的に地蔵院に置かれていたこともある。

六角堂

六角堂

六角堂には六地蔵(六体の地蔵菩薩立像)が安置されている。

案内役の加藤氏

この六地蔵は江戸中期・元文2年(1737)に造立されました。地蔵像の台石には、地蔵院を開基した家の五代目当主の名前が願主として刻まれているほか、開山時の住職・宥敞(ゆうしょう)の名前も見られます。

大師堂

大師堂

大師堂。真言宗の開祖・弘法大師坐像が安置されている。

喜多向地蔵尊

地蔵堂

地蔵堂。喜多(北)を向いている地蔵尊(座像)が安置されている。

喜多向地蔵尊

喜多向地蔵尊のお姿。

山門

山門|地蔵院

山門。両脇では、五穀豊穰の大黒様、商売繁盛の恵比寿様が笑顔で出迎えてくれる。門をくぐった参詣者には開運招福が訪れるとか。
 
恵比寿様の横に石塔が二基、並んでいる。

「新四国八十八箇所第六十番」標識石塔

「新四国八十八箇所第六十番」標識石塔

向かって左手は「新四国八十八箇所第六十番」標識石塔。明治20年(1887)造立。正面に「新四国 八十八ヶ所 第六拾番」「蒲生村」「地蔵院」、右側面に「明治二十年十二月」と刻まれている。この石塔は明治20年に再建された。
 
新四国八十八箇所とは、東京都足立区にある西新井大師を一番札所として、草加市・越谷市・さいたま市・川口市・足立区を巡って、川口市安行の慈林寺を結願とする札所めぐりのこと。明治時代に「三郡送り大師」と呼ばれ、盛んに行なわれた。

案内役の加藤氏

新四国八十八箇所の第60番はその後、鳩ヶ谷の影山堂に変わってしまい、地蔵院は、同じく蒲生にある清蔵院(新四国八十八箇所の第16番)の掛所(かけしょ=休憩所)になりました。

念仏講中文字塔

念仏講中文字塔

向かって右手の石塔は、念仏講中文字塔。明治25年(1892)3月造立。正面の主銘は「念仏講中」、脇銘は「明治廿五年」「三月廿一日」「西組」(※7)

※7 西組(にしぐみ)とは、蒲生村内にある江戸時代の小名(こな)「西」からきている。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』の「小名」は現代の「小字」(こあざ・耕地名)に当たるが、まったく同じとはいえない。小名は村内をいくつかに分けて小分けした名である。小字に対して大字(おおあざ)は江戸時代の村名の名残である。

安らかなお顔の神さま仏さま

恵比須様

恵比須様

大黒様

大黒様

地蔵尊

北向地蔵

西のお大尽|江戸時代の名主

西のお大尽|江戸時代の名主

地蔵院をあとに足立越谷線を北に進む。40メートルほど歩いて十字路を左折。りっぱな門構えの家がある。ここは、江戸時代、蒲生村西組の名主を務めた家。村人は西のお大尽(にしのおだいじん)と呼んだ。この家の五代目の当主が先ほどの地蔵院を開基した。

案内役の加藤氏

この家の初代は、安土桃山時代の天正18年(1590)、豊臣秀吉に従って奥州征伐に向かう途中、病気に倒れて越谷の瓦曽根(かわらぞね)で養生し、その後、農民の身分になって蒲生村に定住しました。

買い物兼トイレ休憩|セブンイレブン蒲生西町一丁目店

信号「蒲生本町」前

16時30分。足立越谷線に戻って北へ。セブンイレブン蒲生西町一丁目店に到着。「蒲生本町」信号前。10分間の買い物を兼ねたトイレ休憩。

大六天社跡

大六天社跡

トイレ休憩を終え、セブンイレブン蒲生西町一丁目店の橫の道を南西に進む。80メートルほど歩くと十字路にぶつかる。かつて前方の角地に大六天社(第六天社)があったが、現在は大六天社を管理する家の敷地内に移されている。
 
十字路を右折。北西に進む。

移動|県営越谷蒲生西団地横

県営越谷蒲生西団地横

左手に東武伊勢崎線の高架が見える。県営越谷蒲生西団地前のY字路を右に進む。道幅はかなり狭い。

山王社跡

住宅地

県営越谷蒲生西団地を左に見ながら100メートルほど歩いて丁字路を左へ。住宅街に入る(越谷市蒲生西町一丁目)。このあたり(東武伊勢崎線の東側)一帯は、昔は山王耕地(さんのうこうち)と呼ばれる農地だった。このあたりには山王権現(さんのうごんげん)を祀る山王社があった。(上の写真の十字路周辺)

案内役の加藤氏

山王耕地の宅地開発によって山王社は廃社。先ほど見学した、しょうちん様(蒲生一丁目の久伊豆神社)に合祀されました。しょうちん様(小鎮様)の参道には、このときに移された「山王大権現」と刻まれている石塔が置かれています。

かつてこのあたりが田んぼだったことを知る人はもうほとんどいない。

移動|東武伊勢崎線高架下

東武伊勢崎線高架下(蒲生駅付近)

住宅地を抜けて東武伊勢崎線(上り線側)高架下を蒲生駅に向かって進む。

横断歩道

蒲生岩槻線(埼玉県道324号)にぶつかる。横断歩道を渡って左へ。前方左手に蒲生駅高架下の駐輪場が見える。

蒲生駅の貨物引込線跡

写真

16時50分。蒲生駅高架下駐輪場の前に到着。かつて蒲生駅の南側には貨物の引き込み線があった。駐輪場から東武ストア蒲生店の間。今はアスファルトが敷かれていて、その当時の面影はない。
 
同行の渋谷氏が、昭和30年(1955)ごろの蒲生駅の写真を見せながら、貨物引込線について解説してくれた。瓦屋根の駅舎の風景はじつにのどか。写真に写っている人の姿ものんびりしている。「ラッシュアワー」なんていう言葉もなかった時代だ。

(参考)貨物引き込み線があった時代の蒲生駅周辺図

蒲生駅・貨物引込線の図

※上のスケッチは渋谷氏作成

上のスケッチは渋谷氏が描いた貨物引き込み線があった時代の蒲生駅周辺の図。青い●印は、上の写真で渋谷氏が立っているあたり。その少し先で本線から引き込み線が分かれて東武ストアの方に向かっているのがよく分かる。

蒲生駅倉庫跡

蒲生駅倉庫跡|東武ストア蒲生店

蒲生駅高架下駐車場をあとに東武ストア蒲生店の裏手に出る。ここでも同行の渋谷氏が貨物倉庫があった時代の話をしてくれた。渋谷氏は蒲生地区の生き字引だ。

帰着|蒲生駅東口

東武ストア蒲生店前

見学はこれで終了。蒲生駅東口、東武ストア蒲生店前に帰着。

解散|東武ストア蒲生店前

同行した越谷市郷土研究会の渡邊会長があいさつ。案内役を務めた加藤氏と、途中、いろいろな話をしてくれた渋谷氏に対して参加者全員が感謝の拍手。17時、解散となった。

後記

資料

今回の巡検「蒲生村の石仏と歴史・日光街道(日光道中)編」は、34箇所を4時間かけて巡った。なかなかハードなスケジュールだった。緻密な実地検証を裏づけとした加藤氏の解説、古い時代の写真を見せながら蒲生地区の歴史を話してくれた渋谷氏。二人にはあらためてお礼申しあげる。

謝辞

本記事をまとめるにあたっては、今回の巡検(蒲生村の石仏と歴史・日光街道(日光道中)編)の案内役をつとめた越谷市郷土研究会顧問・加藤氏の指導を仰ぎ、細部にわたって校閲もしていただいた。また貴重な資料も提供していただいた。加藤氏には心からお礼申しあげる。