越谷市大杉の大杉新田稲荷神社にある庚申塔や几号付き測量標石などを調べた。調査した石仏や石塔を写真とともにお伝えする。場所は、大杉公園通りをはさんだ越谷市第二学校給食センターの南側にある。
大杉新田稲荷神社
この稲荷神社は大杉新田の鎮守。稲荷神社周辺の地は、旧・大杉村の本村(本田=ほんでん)を開発して新たに開墾された田地(でんち)なので、「大杉新田」(大杉村の新しい田畑)と呼ばれている。
石塔と測量標識
調査したのは 2023年8月4日と8月5日。境内には、4基の石塔のほか、越谷市内では珍しい几号(きごう)が刻まれている測量標石が置かれている。
- 猿田彦神塔
- 庚申塔
- 水神塔
- 疱瘡神塔
- 測量標石
それでは順番に見ていこう。
石仏
鳥居をくぐった左手、イチョウの木の脇に、2基の石仏が並んでいる。
猿田彦神塔
向かって左側は猿田彦神塔。江戸後期・天保13年(1842)造立。石塔型式は山状角型。正面の最頂部に陽刻された「日月」。中央に「猿田彦大神」と刻まれている。
脇銘
左側面は「天保十三年十一月吉日」、右側面には「大杉村新田組」「講中」とある(上の写真)。右側面の脇銘から、江戸時代、このあたりは「大杉村新田組」と呼ばれていたことが分かる。
庚申塔
向かって右側は、青面金剛像庚申塔。江戸後期・寛政11年(1799)造立。石塔型式は駒型。正面に「日月」「青面金剛像」(※1)「邪鬼」、台石の正面に「三猿」が陽刻されている。
※1 青面金剛は一面六臂(いちめんろっぴ)の「剣人型」(けんじんがた)。右手に「剣」を持ち、左手で「人身」(ショケラ)の髪をつかんでいる。そのほか、右上手で鉾(ほこ)、右下手で矢、左上手で法輪、左下手で弓を持っている。
脇銘
石塔の左側面には「寛政十一己未年十一月吉日」、台石の左側面には「大杉新田講中」「随応和尚」のほか世話人5人の名前、右側面には 6人の名前が刻まれている。(※2)
※2 石塔と台石の銘文は、風化が進んで読みとれない箇所が多かったので、加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧大杉村」(3)大杉新田稲荷神社、52頁に基づいた。
また、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、大杉新田稲荷神社の猿田彦神塔と庚申塔は、「もともとは別の場所にあったが、戦後まもまくここに移された」(※3)という。
※3 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧大杉村」(3)大杉新田稲荷神社、52頁
境内社
参道の右手に、銅板葺きの境内社が二宇並んでいる。
水神社
向かって右手は、水神社。小祠の中に「水神宮」と刻まれた石塔が祀られている。
水神塔
石塔の造立は、江戸後期・天保13年(1842)。石塔型式は駒型。外からは脇銘は確認できないが、加藤幸一(2019)「新方地区の石仏」(※4)によると、左側面には「天保十三寅□吉日」、右側面には「氏子中」と刻まれている。
※4 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧大杉村」(3)大杉新田稲荷神社、52頁
疱瘡神社
向かって左手の小社には、疱瘡神(ほうそうがみ)が祀られている。疱瘡神とは厄病神の一種。疱瘡(天然痘)を神の仕業と信じて、石に刻んで祀ったもの。
疱瘡神塔
石塔の正面に「疱瘡神」と赤文字で刻まれている。石塔型式は駒型。造立年代は不詳。石塔前に、赤く塗られた御幣(ごへい)が立てかけられている。赤は疱瘡神が嫌う色とされた。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、大杉新田神社では、昔から毎年1月19日に疱瘡神に関する行事が行なわれてきた、と述べている(※5)。以下、引用・抜粋。
この石塔(疱瘡神供養塔)に、しめ縄を巻き、そのしめ縄に赤く塗られた紙でできた四手(しで)を垂れ下げ、さらに石塔に赤く塗られた幣束(へいそく)=御幣(ごへい)を付けた棒を立てかけ、そこに、粳(うるち)の小豆ご飯を供えた。そしてお参りに来る地元の人々に小豆ご飯の小さな握り飯が振る舞われた。
引用元: 「新方地区の石仏」(※5)
※5 加藤幸一「新方地区の石仏」平成7・8年度調査/平成31年1月改訂(越谷市立図書館蔵)「旧大杉村」(3)大杉新田稲荷神社、52頁
備考
現在、小社の中に祀られている水神塔と疱瘡神供養塔は、もともとは境内に置かれていたが、境内社が新築されたときに、社の中に安置された。