越谷市長島にある長島自治会館の庚申塔をはじめ石塔群を現地調査した。二十三夜塔・六十六部供養塔・一石六地蔵・念仏供養塔……。場所は、県民健康福祉村の北駐車場から蒲生岩槻線を渡って、西に200メートルほど歩いた左手にある。
長島自治会館の石塔群
長島自治会館の入口脇に手水石(ちょうずいし)をはじめ石仏や力石が並んでいる。これらの石塔群は、旧・長島稲荷神社と万蔵寺(廃寺)にあったもので、自治会館の新設にともない、ここに移された。
旧・長島稲荷神社と万蔵寺跡
上の写真は、長島稲荷神社と万蔵寺の跡地。長島自治会館から北西400メートルほど先、長島の世襲名主の屋敷裏である。この場所に稲荷社の祠と石塔群ならびに集会所があった。石仏などは屋敷裏の茂みのもとに並べられていた。万蔵寺は明治初期には廃寺になっていたようである。
旧・長島稲荷神社の石塔群
※長島稲荷神社の石塔群(出典:越谷市デジタルアーカイブ)
越谷市デジタルアーカイブに、昭和54年(1979年)ごろに撮影された、長島稲荷神社の石塔群の写真が公開されている(上の写真)
※ 出典:越谷市デジタルアーカイブ( 長島稲荷神社の石塔)
畑仕事をしていた地元の老婦人に聞いた話によると「長島稲荷神社の祠は、現在は長島自治会館の中に安置されている」とのこと。また「私が生まれたときは(長島)稲荷神社に初宮参りに行ったんですよ」という貴重な昔話も聞かせてくれた。
長島稲荷神社は長島村の鎮守社だった。
補足|最初の移転先
上記の老婦人が「屋敷裏にあった旧・長島稲荷神社と石塔群は、長島自治会館に移転する前、一時期、五才川左岸の堤防道(岩槻道)沿い(旧・長島稲荷神社の跡地と長島自治会館の中間地点あたり)に移された(上の写真の土が盛られて空き地になっているところ)。その後、長島自治会館の新築に合わせ、祠と石塔群が、長島自治会館に再移転された」という話をしてくれた。
越谷市郷土研究会の加藤幸一氏によると、最初の移転は「平成10年(1998年)4月」(※1)とのことである。
※1 「荻島地区の石仏」加藤幸一(平成14年度調査/平成29年3月改訂)越谷市立図書館所蔵「旧長嶋村の石仏」78頁
五才川
長島自治会館と旧・長島稲荷神社跡地の西側を流れるのは五才川(ごさいがわ)。このあたりは越谷の原風景が色濃く残っている。
石塔群
それでは、長島自治会館に戻って、石塔群を手前から順番に見ていこう。
手水石
いちばん手前、向かって右端にあるのは手水石(ちょうずいし)。江戸中期・享保10年(1725)に、地元・長島村の人々によって寄進された。正面中央に「卍」(まんじ)が浮き彫りされている。万蔵寺の名残か。銘文は「奉納 御宝前」「享保十乙巳年二月吉祥日」「武州長嶋村中」とある。
二十三夜塔
右から二番目。上部だけが残っている舟型の石塔。年代は不詳。向かって右下に「二十三」の文字が確認できるので、二十三夜塔(にじゅうさんやとう)と思われる。浮き彫りされている主尊は顔の破損が著しく、かろうじて合掌している姿だと分かる。
二十三夜塔の本尊は、合掌している勢至菩薩(せいしぼさつ)が一般的なので、この像も勢至菩薩と思われる。
この石塔について、越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「二十三夜塔と推定できる。全国的に見られる月待(つきまち)塔ではあるが、市内では二十三夜塔は珍しい。ここに描かれている[……]仏様は合掌していると思われる勢至菩薩である」と述べている(※2)
「二十三」以外の文字は確認できないので、断定はできないが、この地区(旧・長島村)で、二十三夜待(※3)が行なわれていたことを示す貴重な史料といえる。
※2 「荻島地区の石仏」加藤幸一(平成14年度調査/平成29年3月改訂)越谷市立図書館所蔵「旧長嶋村の石仏」79頁
※3 二十三夜待(にじゅうさんやまち)とは、特定の月の23日の夜に講員(村の仲間)が集まり、月を拝みながら飲食を共にする行事。女性だけの講が多かった。江戸時代、全国各地でさかんに行なわれた。二十三夜待を行なった記念や供養として建てられたのが二十三夜塔。
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旧暦の18日・19日・23日などの夜に集まって飲食をともにしながら月を拝む月待(つきまち)。月待の行事を行なった供養のしるしに建てた塔を月待塔(または月待供養塔)という。越谷市に現存している月待塔(十九夜塔と二十三夜塔)全13基を調査した。
六十六部供養塔
六十六部供養塔(※4)。石塔型式は隅丸角柱型。江戸中期・享保20年(1735)造立。正面の最頂部に阿弥陀三尊を表す梵字「サク」(勢至菩薩)「キリーク」(阿弥陀如来)「サ」(観世音菩薩)。主銘は「奉造立六十六部納帳為二世安楽也」と刻まれている。
脇銘は、「享保二十乙卯天」「九月吉日」「施主 白誉雲心」「武州崎玉郡長嶋村」とある。台石の正面には、西新井村・平沼村・釣上新田村・左藤村(佐藤村か)・荻嶋村・神明下村と、願主の村名が確認できる。
※4 六十六部供養塔(ろくじゅうろくぶ・くようとう)とは、全国66か所の寺院(霊場)を巡礼して、書写した法華経を一部ずつ奉納した記念に建てられた供養塔のこと。六十六部廻国供養塔とも呼ばれる。
一石六地蔵
一石六地蔵(いっせきろくじぞう)。江戸後期・文化7年(1810)造立。石塔型式は変形の駒型。石塔の正面に六地蔵が陽刻されている。上段に三尊、下段に三尊。
脇銘
左側面に「文化七庚午四月吉日」、右側面に「長嶋村」「講中」とある。
青面金剛像庚申塔
青面金剛像庚申塔。石塔型式は笠付き角型。江戸中期・享保3年(1718)造立。正面に、日月、青面金剛像、二鶏、邪気、三猿が陽刻されている。青面金剛は六手合掌型。
脇銘
左側面の最頂部に青面金剛を表わす梵字「ウン」、その下に「奉造立青面金剛二世安楽祈」。右側面には「旹(※5)享保三戌戌天十一月吉日」「武州長嶋村」とある。台石には、寄進者の名前が19人刻まれている。
また笠の側面には「卍」(まんじ)が浮き彫りされている。この庚申塔も手水石と同じく、万蔵寺にあったものと思われる。
※5 越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は「『旹』は『ときに』と読む」と述べている。なお石塔と台石の銘については、読みとれない箇所もあったので、「荻島地区の石仏」加藤幸一(平成14年度調査/平成29年3月改訂)越谷市立図書館所蔵「旧長嶋村の石仏」79頁に従った。
念仏供養塔
地蔵菩薩を主尊とした念仏供養塔。石塔型式は舟型。江戸中期・元禄9年(1696)造立。正面の最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字「カ」中央に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)。顔は、劣化のためか、すり減っている。脇銘は「奉造立地蔵菩薩像二世安楽攸念仏講中」「元禄九丙子秋十月吉祥日」「敬白」とある。
僧侶の墓石
僧侶の墓石。石塔型式は隅丸角状型。江戸中期・宝暦4年(1754)造立。正面の最頂部に観世音菩薩を表わす梵字「サ」、その下に「●□法師不生位」と刻まれている。一文字目は「りっしんべんに主」、二文字目は解読できない。不生位(ふしょうい)は、僧侶の戒名の下に付ける尊称。
脇銘は「宝暦四申戌天」「十一月九日」。宝暦4年は江戸中期。江戸後期、幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に、萬蔵寺の名が記されている(※6)ことから、この石塔は、旧・長島稲荷神社と並んで建っていたとされる万蔵寺(萬蔵寺)の僧侶の墓石と思われる。
※6 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)長島村の項、143頁に「萬蔵寺 新義真言宗、末田村金剛院末、長嶋山と号す、本尊十一面観音を安置せり」とある。
地蔵菩薩立像
合掌している丸彫りの地蔵菩薩立像。年代は不詳。
首から下は再生(?)
よく見ると、首から下は顔よりも新しい。顔が欠けてしまったか、首から下の損傷がひどかったかの理由で、新しく首から下の部分を造り直し、その上に、古くからあった顔を載せて再生したと思われる。
信仰心の厚さがうかがえる。合掌。
力石
いちばん奥(向かって左端)に、三個の力石(ちからいし)が並んでいる。風化が進んでいるので、刻まれている文字は読みとれない。江戸時代、旧・長島稲荷神社の境内で、村の若い衆たちが力比べをしたのかもしれない。耳をすますと、見物人たちの歓声が聞こえてくるようだ。
場所
長島自治会館の住所は、埼玉県越谷市長島183( 地図 )。郵便番号は 343-0853。場所は、県民健康福祉村の北駐車場の西300メートル。セブンイレブン越谷西新井店の南側の小道を西に直進200メートル。自治会館の横(道路沿い)に車を駐めるスペースがある。
参考文献
本記事を作成するにあたっては、石仏や石塔の金石文を確認するさいに、関係書籍や調査報告書とも照らし合わせた。参考にした文献を以下に記す。
加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『日本石仏図典』国書刊行会(昭和61年8月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典<第二版>新装版』雄山閣(平成7年2月20日発行)
外山晴彦『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)