2022年4月30日。越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部主催の巡検に参加した様子を3回に分けてお伝えする。今回は1回目。越谷市増林北部編。逆川に架かる大吉橋を起点に掛樋堀(かけいぼり)と古道を歩きながら史跡と石仏を訪ねた。
集合|北越谷駅東口
集合場所は北越谷駅東口。受付後、資料を渡された。参加者は17人。今回参加したのは、NPO法人・越谷市郷土研究会・地誌研究倶楽部が主催する巡検「増林村北部の地誌」。13時。案内役を務める越谷市郷土研究会顧問・加藤氏のあいさつのあと朝日バスに乗って出発。
小田急弥栄団地入口着
13時10分。小田急弥栄団地入口バス停で下車。バス停で、越谷市郷土研究会・副会長兼地誌研究倶楽部・会長の秦野氏が合流。越谷野田線に沿って大吉橋に向かう。
逆川と大吉橋
逆川(さかさがわ)に架かる大吉橋。逆川は、古利根川の古利根堰(松伏溜井)を起点に、大吉橋の北東60メートルの地点で、新方川(にいがたがわ)を伏せ越し、瓦曽根溜井から元荒川へと至っている。
もともとは、逆川は、古利根川の松伏溜井を起点に、大沢橋の元荒川との合流点までの間を逆川と呼んでいました。
旧・定使野橋跡
大吉橋の隣にある定使野公園へ移動。公園内に水神宮があるが、加藤氏が「昔は、水神宮の鳥居前あたりに、定使野橋(じょうつかいのはし)があった。また、水神社もここではなく橋を渡った先にあった」と話してくれた。
旧・定使野橋があった場所を案内役の加藤氏が指で指し、橋が架かっていた箇所を実際に歩いてみせてくれた。
現在の定使野橋は新方川に架かっているが、かつての定使野橋は、新方川ではなく、当時の水神社のうしろ(北側)を流れていた逆川に架かっていたという。
水神宮|文字塔
続いて水神宮へ。祠の中には「水神宮」文字塔が安置されているが、現在、安置さているのは二代目。初代は祠のうしろに隠居している。
初代・「水神宮」文字塔の造立は江戸後期・嘉永2年(1849)。読み取りにくくなっているが、正面に「水神宮」と刻まれている。
三基の石塔
祠の横手、生け垣沿いに、三基の石塔が並べられている。左から江戸前期・寛永13年(1636)の宝篋印塔、江戸中期・宝暦8年(1758)の地蔵像付き念仏供養塔、江戸後期・寛政5年(1793)の巡礼供養宝塔。解説は割愛。
樋管跡
現在、逆川は、定使野橋の手前で、新方川の下を伏せ越して横断しているが、昔は、新方川(せんげん堀)が現在の定使野橋付近で、樋管(ひかん)を通って、逆川の下をくぐって流れていた。樋管は水路を通すトンネルのこと。
「地元ではこの樋管が埋まっているあたりを『樋管』と呼んでいて、当然ここには橋はなかった。地下にある樋管が現在は千間堀の大きな川に変貌し、その川の上にさらに橋が架けられることになった」(加藤氏談)
秦野氏が、昔の河川図を使って、逆川の下をせんげん堀(現・新方川)が樋管を通して流れていたこと、さらに古くは、せんげん堀の樋管の上流から分かれたもう一筋の流路が見られたことを教えてくれた。現在はその名残はまったくない。
せんげん堀は、逆川の下をくぐる樋管(現在の定使野橋)を境に、上流側を「上(かみ)せんげん堀」、下流側を「下(しも)せんげん堀」と、呼ばれていました。
秦野氏は、下千間堀と伏越について「越谷市増林地区における『新方川』の流路変遷」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。また同論文は越谷市郷土研究会会報第19号『古志賀谷』(令和2年12月刊)pp.16-27. にも載っている。
http://koshigayahistory.org/200424_niigatagawa_h_hatano.pdf
定使野橋
定使野橋を渡って、新方川の左岸側に出る。前方左手に見える施設は、逆川の伏越施設。逆川は伏越施設を通して新方川の下を横断している。伏越施設のうしろはキャンベルタウン野鳥の森。
定使野橋を渡ったところで、越谷野田線(埼玉県道・千葉県道19号)を横断。50メートルほど先の丁字路に向かった。
前波土橋跡
丁字路を右に曲がる。越谷野田線の対面に、逆川から掛樋堀(かけいぼり)に水を流している水門が見える(上の写真の黄色い▲印)。かつて、その場所に、前波土橋(ぜんなみどばし)と呼ばれる土橋が架かっていたとのこと。
案内役の加藤氏が、前波土橋跡を指で指し示してくれた。
前波土橋跡の地図
前波土橋があった場所を図にした(上記画像)。地図は Googleマップ から引用。
加藤氏によると「この前波(ぜんなみ)土橋には、かつては『かけい堀』の由来となる懸樋(かけひ、または〔かけい=掛井〕と呼ぶ)が架かっていたかもしれない」とのことである。
清了院跡
丁字路の先、右手には田んぼが広がっている。前方右手に見えるのは定使野橋。かつてこの土地には清了院(せいりょういん)という真言宗の寺院があった。江戸後期・幕府が編さんした『新編武蔵風土記稿』にも「清了院 勝林寺の末、本尊観音を安ず(安置する)」とある。
掛樋堀
小道を南東に進む。左に見える柵で仕切られた用水路は掛樋堀(かけいぼり)。先ほどの前波土橋跡のところを起点に、逆川から水を取って、増林の中央を南東に流れている。かつては逆川の対岸から掛樋(かけひ)を通して送られてきたのかもしれない。
十字路|古道跡
かけい堀に沿って小道を300メートルほど歩くと十字路にぶつかる。左右に延びているのは古道跡。十字路を左に曲がって古道跡を進む。
清了院墓地
50メートルほど歩くと右手に墓地が見える。この墓地は、かつて清了院(清涼院)と称された寺院の墓地である。清了院の本堂は、先ほど見学した場所、掛樋堀の南側一帯にあった。
石塔群
左手のブロック塀沿いには石仏や墓石が並べられている。石灯籠供養塔・地蔵菩薩坐像・百箇所巡礼塔のほか庵主や住職の供養塔なども置かれている。
石塔群の中から二基、案内役の加藤氏が紹介してくれた。
十三仏像容塔
十三仏が陽刻されている笠付き角型の十三仏塔。十三仏とは死者の追善供養で初七日から三十三回忌までの十三仏事に当てられた13の仏菩薩(ぶつぼさつ)のこと。亡くなった人を浄土に導く。
十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔
十九夜念仏供養塔を兼ねた三界万霊塔(※1)。江戸中期・寛永4年(1751)造立。正面の上部に陽刻された如意輪観音座像、中央に「三界万霊等」と刻まれている。「等」は「塔」を意味する。
左側面に「十九夜念仏供養塔」(※2)とある。
※1 三界万霊塔(さんがいばんれいとう)とは、命あるものが住む三つの世界◇欲界(よっかい)◇色界(しきかい)◇無色界(むしきかい)…にいるすべての精霊(万霊)を供養するために建てられた塔のこと。
※2 十九夜念仏とは、十九夜の夜に講中(こうじゅう)と称する仲間が集まって、飲食をともにしたあと、念仏を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという風習。多くは女性によって行なわれた。十九夜念仏を行なった記念に建てたのが十九夜念仏供養塔。
清了院墓地の見学を終える。
横井堀
清了院墓地の前に横井堀(よこいほり)と呼ばれる用水路が流れている。横井堀は、ここから南東にまっすぐ流れていき、1キロメートルほど先で、市役所前中央通りにぶつかり、直角に流路を左に変えて、ふれあい橋の下(横井堀排水機場)で、古利根川に注がれる。